【1/23追加・訂正】お寺の書庫に『辯財天勤行儀』があり、経文を対校してみました。
いまお勤めしているお寺のご本尊は釈迦如来ですが、その向かって右側にある小さな厨子には、弁才天が祀られています。よって、寺内作成の勤行次第には『観音経普門品偈』『般若心経』『舎利礼文』とともに、『大辯才天讃偈』『大辯才天女品』という弁才天を讃嘆する経文が二つ収められています。
私は天部の仏さまについてはさほど関心はなく、深く理解しようとはしなかったのですが、昨年11月三井寺に出向いたおり、大門・仁王門を入ってすぐ右手の釈迦堂、その境内の池に弁才天が祀られている(びわ湖大津歴史百科「弁天祠(釈迦堂)」参照)ことをあらためて知り、“お釈迦さまと弁才天さまとは仲が良いのかしら”と素直に感じてしまいました。そのときから、弁才天について調べてなければと思っていたところ、新年明けて巳年になり、弁才天についてのご質問も受けることがありました。いろいろ調べてはいるのですが、考察はインド古典文化までさかのぼり、歴史的にも雄大で、なかなか手ごわいです。ここではまず『大辯才天讃偈』を訓読して読んでみます。いつもはもちろん、音読します。
『大辯才天讃偈』
これは、義浄訳『金光明最勝王経』「大辯才天女品」第十五にあり、憍陳如Kauṇḍinya(なる)婆羅門が、弁才天を呪の形式をもって讃嘆する一節です(文末は「莎訶svāhā」となっています)。憍陳如婆羅門は、この讃の言詞を述べおわって、次のように語っています。「晨朝に清浄、至誠にて誦せよ。求むる所の事に於いて悉く心に随わん」と。なるほどそうなのです。訓読は『昭和新纂国訳大蔵経』経典部第四巻、昭和3年を参照しました。理解に役立つよう[ ]内にことばを補いました。
敬禮敬禮世間尊(きょうらい、きょうらい、せけんそん)
世間に尊き[汝、弁才天]を敬禮し、敬禮す。
於諸母中最為勝(おしょもちゅう、さいいしょう)
三種世間咸供養(さんじゅせけん、げんくよう)
諸の母[のごとき、天女]の中に於いて最も勝れたり、三種の世間[は、汝を]咸く供養す。
面貌容儀人楽観(めんみょうようぎ、にんぎょうかん)
種種妙徳以厳身(しゅじゅみょうどく、いごんしん)
目如脩広青蓮葉(もくにょしゅこう、しょうれんにょう)※「脩」は『勤行儀』では「修」とあります。
福智光明名稱満(ふくちこうみょう、みょうしょうまん)
譬如無價末尼珠(ひにょむげ、まにしゅ)
面貌の容儀[は]、人[みな]、観んことを楽(ねが)う。種種の妙徳を以て身を厳(かざ)り、目は脩広の青蓮葉の如く、福・智の光明(あるいは「福智と光明」)と、名称との満ちたること、譬えば無価の末尼珠(maṇi宝珠)の如し。
「脩広」は八十好相の一つとして、目の形容詞として用いられます。
我今讃歎最勝者(がこんさんだん、さいしょうしゃ)
悉能成辦所求心(しつのうじょうべん、しょぐしん)
我れいま最勝者[たる汝]を讃歎す。悉く能く所求の心を成弁せよ。
真実功徳妙吉祥(しんじつくどく、みょうきちじょう)
譬如蓮花極清淨(ひにょれんげ、ごくしょうじょう)
身色端厳皆楽見(しんじきたんごん、かいぎょうけん)
衆相希有不思議(しゅそうけう、ふしぎ)
能於無垢智光明(のうおむく、ちこうみょう)
於諸念中為最勝(おしょねんちゅう、いさいしょう)
真実の功徳は妙にして吉祥なり、譬へば蓮華の極めて清浄なるが如し。身色の端厳は皆、見んことを楽い、衆相[は]希有にして不思議なり。能く無垢の智の光明を放ち、諸の念(*smṛti)の中に於いて最勝たり。
猶如師子獣中王(ゆうにょしし、じゅうちゅうお)※大正蔵本では「上」、『勤行儀』の読み「王」を採る。
常以八臂自荘厳(じょういはっぴ、じしょうごん)
各持弓箭刀矟斧(かくじぐうせん、とうしょうふ)
長杵鉄輪并羂索(ちょうしょ、てちりん、びょう、けんさく)
猶し師子の獣の中の王たるが如し。常に八臂を以て自ら[を]荘厳し、各おの、弓(ク)と箭(セン)と刀(トウ)と矟(ボウ/サク。三叉戟)と斧(フ)と、長杵(チョウショ。一古杵)と鉄輪(テツリン)と并に羂索(ケンサク)とを持(じ)す。
ここでは、弁才天は八臂のお姿として示されています。その意図するところは、「勇猛にして常に大精進を行ず/軍陣の処に於て戦いて恒に勝ち/長養し調伏して心慈忍なり」とあります。なおこの記述に基づく画像として、浄瑠璃寺伝来の吉祥天像厨子の扉絵があります(和楽Web 2022.04.20「日本一の美人」を納めた厨子の中へ! 重文《浄瑠璃寺吉祥天厨子絵》の謎を徹底解説、など参照)。
端正楽観如満月(たいしょうぎょうかん、にょまんがつ)
言詞無滯出和音(ごんじむたい、すいわおん)
若有衆生心願求(にゃくうしゅじょう、しんがんぐ)
善事随念令圓満(ぜんじずいねん、りょうえんまん)※「善事」は『勤行儀』では「善士」とあります。
端正にして観るを楽うこと、満月の如し。言詞は滯ることなく和音を出す。
若し衆生ありて心に願求せば、善事は念に随いて円満ならしむ。
「言詞」は、「無礙の辯と聡明の大智と巧妙の言詞、博綜の奇才、論議の文飾」とあって、弁才天の有するすぐれた性質、そして弁才天への讃嘆、帰依を通して得られる功徳をいうのでしょう。心に願い求めるところを叶えてくださるのですが、それは善事であるなら、その「念に随いて」ということなのでしょう。
帝釈諸天咸供養(たいしゃくしょてん、げんくよう)
皆共稱讃可帰依(かいぐしょうさん、かきえ)
帝釈[天をはじめ、]諸天、咸く供養す。皆共に稱讃し、帰依すべし(もしくは、「帰依すべしと称賛す」)
衆徳能生不思議(しゅうどくのうしょう、ふしぎ)
一切時中起恭敬(いっさいじちゅう、きくぎょう)莎訶(そわか)
衆徳、能く生ずること[は]不思議なり、一切時の中に恭敬を起せ。莎訶
「莎訶」は、マントラなど呪をしめくくる聖なることばとして用いられます。ここでは、「成就(siddhi願いが叶うこと,ものごとが成し遂げること)」の意味なのでしょう。『仁王護國般若波羅蜜多經陀羅尼念誦儀軌』不空訳(T.No.994)「娑嚩<二合引>訶<此云成就義、亦云吉(19, 519a21)祥義、亦云圓寂義、亦云息災増益義、亦云無住義。」(Web版新纂浄土宗大辞典「蘇婆訶」参照)