涅槃寂静
次に「うゐのおくやま けふこえて(有為の奥山 今日越えて)」の一行は「生滅滅已」(生と滅とを滅し已り/滅し已りて)の句に当たります。有為(うい)とは、仏教用語で、さまざまな原因と条件等によって結果として作りなされたもの、因と縁の和合によってつくりだされた(為作、造作、有作の)諸現象(中村元『佛教語大辞典』縮刷版)という意味であり、すなわち縁起(因縁生起)したもの、したがって無常なるものをいいます。(※有為転変の用例は日本撰述の文献に限られるようです。)いま私たちの生きる、この有為の境遇は、さまざまな意味で奥山(おく深く、けわしく、あやういところ)にたとえられます。たとえば、奥山は「毒樹(どくじゅ)荊刺(けいきょく)の繁茂するところ」、この有為の境遇は「貪(とん)瞋(じん)邪見(じゃけん)のあらあらしき煩悩のはびこるところ」。奥山は「樹木しげって昼なお暗いところ」、私たちは「無明(むみょう)の惑に覆われて、智慧の光明を失」える存在。奥山は「人を害する猛獣毒虫の居るところ」、この三界は概して「火難・水難、剣難・盗難など種々の災害の集まるところ」云々と。
私たちが迷いにあり、しかも喜び、いかり、悲しみ、楽しみながら生死し、執着の対象とする、この生存のすべてが無常であり、無我であることを明らかに知って、有為に対する愛着・束縛を離れる。それが「けふこえて」とうたわれます。「けふ」とは「いま・ここ」の意であり、「て」は「滅し已りて」の「て」であり、「滅し已れば」と同じく、事を成し終えて、次に移る意を表しています。さらには「けう」は明日と延さぬ意図があり、すみやかに解脱に達するよう修行につとめる表現であるとも理解できるのです。
涅槃―解脱と菩提―
有為生死の迷いの境遇を超えたところに、涅槃寂静、完全なやすらぎが現成します。「あさきゆめみじ ゑひもせず(浅き夢見じ 酔いもせず)」は「寂滅為楽」の句にあたります。「涅槃」とは、サンスクリット語でニルバーナ、パーリ語でニッバーナといいます。その語源は「吹き消すこと」あるいは「風が燃えている火を吹き消した状態」の意味と解釈され、悟りと修行によって煩悩を残らずなくしてしまうことをいいます(望月良晃、前掲書参照)。
「夢」と「酔い」とは、どのように解釈されるでしょうか。弘法大師のことばには「哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子。苦しいかな、痛ましいかな、狂酔の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る」(『般若心経秘鍵』)とあるように、ここでは、迷いの長夜(じょうや)にみる夢、無明(むみょう)の酒に酔うことと理解しておきます。「あさき(浅き)」とは、「浅はかな」ということです。迷いの生死にある限り、いいかえれば、無明に心まどわされ、夢のような現実からめざめない限り、この生死でのできごとはきわめて大切なもの、価値の有るものであり、執着すべき対象としてあらわれますが、悟れる者からすれば、それは取るに足らない、価値のないものであると知られるということを意図しての表現なのです。したがって「うゐのおくやま けふこえて」云々は、「生死の迷いを脱し、諸行無常・諸法無我の真実が知られたからには、生死の浅はかな夢からさめて、再び無明の酒に酔うことはない」との意であると理解したいと考えます。この二句は三法印の「涅槃寂静」を説いているのです。
「ゆめみじ」は「ゆみみし」と読むとの意見もあるのですが、ここでは「あさきゆめみじ ゑひもせず」と、「之」と「須」を濁音と読み、「不夢」「不酔」と理解しています。大切な理由があるのです。涅槃は寂静の理(ことわり、道理)ではありますが、「ゆめみじ」で、執着をすべて離れて、完全なやすらぎに達したこと、すなわち解脱をうたい、「ゑひもせず」では、無明痴暗を離れた、菩提の智を証することを語るものとして解釈したいからなのです。すなわち涅槃は寂静、静止的なものばかりではなく、活動的な局面もそなえているからなのです。
無常感と無常観
私たち日本人は、ものごとの移り変わりの中に何らかの意味・メッセージを感じ取る繊細な感性を有していたのではないでしょうか。そして、うつろい、もののあわれといった、そのナイーブな無常感を鍛え上げ、「いろは」に凝縮される無常観にまで仕上げ、あるがままに、すべてを知り得る智の体得へと導いたのは、仏教の思想であったのです。春夏秋冬、四季の変化、大小さまざまな自然の姿を、私はいまとてもなつかしく思い出しています。現在の私たちの生活は無常性を忘れてしまっているかのようです。あえていえば、私たちは意識する、意識しないにかかわらず、恒常的なもの・絶対的なものを求めていたのではないでしょうか。
プルトニウム、セシウム137などの原発汚染物質、これだって無常なはず。(最近、ダイオキシンの話題を聞かなくなったが、どうなっているのだろう。)しかし、問題解決には何十年かかるのだろうか。おそらく私の生きている限りは、原発汚染の問題は私たちの念頭から離れないだろう。私は、私たちが人間の一生の時間を費やしても解決不可能で、もとの状態には返れないほどの「恒常的なもの」を造り上げてしまったことを深く悲しんでいる。今晩のニュースで、東京電力福島第1原発1号機の格納容器内の水位が予想に反して少なく、40センチほどしか水がたまっていないとの解析結果が出たのですって。いま現在もその問題解決にあたってらっしゃる多くの方々に感謝の意を表したい。私も何らかの援助をしなければならない。希望は捨てない。私たちは無常を生きなければならないのですから。
(2012/5/22)