以下、ご紹介いたしますのは、十二年も前の原稿、2012年5月分の法話会のために用意したものです。読み返してみて、修正すべきところもないわけではありませんが、いまはそのままに投稿いたします。思い出のある、大切な原稿のひとつです。

 

忘 れ て は な ら な い こ と

「いろは」の教え

 

日本人なら、平安の頃より、だれでもが知っている「いろは」の四十七文字。しかしその作者や表記方法などに問題が多く、こんにちでは、その文句の意味の確定した説明すら、むつかしいとのこと。だからといって、決して「いろは」は既に無用の存在であり、このまま忘れ去られてよいものではありません。ここでは長谷寶秀師(1869-1948)の『いろは乃話』(真言宗伝道団、大正三年)に拠りながら、「いろは」の読み方、その仏教的な意味について考えてみましょう。

 

読み方

「いろは」には、大きくいって、二つの読み方があります。そのひとつは「い ろ は に ほ へ と」一字ずつ区切って読みます。ただし、最後の「す」の字だけは濁って読み、それ以外はすべて清んで読みます(観応(1650-1710)の『補忘記』も同意見)。また書く場合は以下のように七行とし、初めの六行は七字ずつ、終わりの一行は五字となります。 

 

以 呂 波 耳 本 ヘ 止    

い ろ は に ほ へ と

千 利 奴 流 乎 和 加

ち り ぬ る を わ か

余 多 連 曽 津 祢 那    

よ た れ そ つ ね な

良 牟 有 為 能 於 久

ら む う ゐ の お く

耶 万 計 不 己 衣 天    

や ま け ふ こ え て

阿 佐 伎 喩 女 美 之

あ さ き ゆ め み し

恵 比 毛 勢 須

ゑ ひ も せ ず          (『金光明最勝王経音義』)

※『金光明最勝王経音義』仏典注釈書。著者不詳1079年識語がある。『金光明最勝王経』の漢字四三六字を標出し、それに字音注、意義注、万葉仮名による和訓付す和訓につけられた声点平安時代アクセント反映する。巻頭には現存最古の「いろは歌」がある。(三省堂『大辞林』)


もう一つの読み方は、七五調の和歌(今様)のように読みます。すなわち、

 

いろはにほへど ちりぬるを

わがよたれぞ  つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみじ ゑひもせず

 

と四行に読みます。この場合は、ど、が、ぞ、じ、ずの五字は濁音となります。これを漢字を交え、かつ現代仮名遣いで表記すれば、「色(いろ)は匂(にお)えど 散(ち)りぬるを 我(わ)が世(よ)誰(たれ)ぞ 常(つね)ならん 有為(うい)の奥山(おくやま) 今日(きょう)越(こ)えて 浅(あさ)き夢(ゆめ)見(み)じ 酔(え)いもせず」となります。

※旺文社『中学校総合的研究国語』2006年、pp.378-379 参照

 

施身聞偈・無常偈 

 「いろは」は『涅槃経』聖行品の「諸行無常(しょぎょう・むじょう) 是生滅法(ぜ・しょうめっぽう/ぜ・しょうめつ・ほう) 生滅滅已(しょうめつ・めつ・い/しょうめつ・めっち) 寂滅為楽(じゃくめつ・いらく)」の四句が典拠とされます。(※いろはを『涅槃経』の四句にあてることを誤りとする意見もあります。諦忍律師『以呂波問弁』)

 この四句は、『涅槃経』では、釈尊の前生の姿である雪山の一童子が、帝釈天が姿を変えた羅刹に自らの身を施してまで聞法を求めた偈(gatha, 韻文)という意味で「施身聞偈」と呼ばれますが、その内容は無常(anitya)を伝えるものであり、原始仏典(Mahaparinibbana-suttanta VI, 10. DN, Ⅱ.p.157 G; SN. vol.I, p.5 G; p.158 G, p.200; vol.II. p.193; Jataka, vol.I, p.392,  etc.)にまでさかのぼります。

 施身聞偈・無常偈は次のように訓読します。「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり 生と滅とを滅し已り、寂滅なるを楽となす」(望月良晃『大乗涅槃経入門』pp.202-203参照)。標準的な現代語訳は以下の通りです。「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。生じては滅びる。これら(つくられたもの)のすやらいが安楽である」(中村元訳『ブッダ最後の旅―大パリニッバナ経―』岩波文庫、pp.160-161)。

 

諸行無常、諸法無我 

 第一の句である「いろはにほへど ちりぬるを(色は匂えど 散りぬるを)」は、「散」るとあるので、花にこと寄せて、ものごとの移り変わり、無常のありさまが述べられていることが知られます。はなの色のはかなさは、たとえば「花の色は うつりにけりな いだづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)ともうたわれている通りです。また、この行の最後の「を」は「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬる 雲のいづこに 月やどるらむ」(清原深養父)の「を」と同じく、逆接の接続助詞であり、事の裏返る意、あるいは事の案外に出る意を示し、現代表現での「行ったのに遇わなかった」とか、「見たのに見えなかった」などのように、「のに/が」にあたることばであるとのことです。したがって「いろはにほへど ちりぬるを」は、いまはさかりと咲きほこるこの花のすがた、間もなく散ることを知らないわけではない、いつまでも美しく眺めていたいとは、ああなんと愚かな、悲しいことよと、余情を含めた表現と解釈されます。なお「にほへど」の「にほふ」は、その姿・色が視覚的に映えるという意味であり、決して臭覚的な意味ではないことを知り、おどろいています。臭覚的な意味を表す場合は「香(か)ににほふ」と表現されるのですって。

 

 「わがよたれぞ つねならむ(我が世誰ぞ 常ならん)」は、諸行無常の意を端的に述べています。すなわち、上の句の「を」の意味する、常住であれ(いつまでも美しく眺めていたい)との迷いを転じ、すべては無常であるとの真実の開悟へと導く句となっているのです。この句の「わがよ」とは、われも無常なり、わが世も常ならずとの二つの意味を兼ね、そのうちの「わが世」とは、わが地位、名誉、財産といった自らの所有を指すものとも解釈されます。したがって、この句では、わが身はもちろん、われの所有もまた、うつろい変化するもの、生(発生)・住(維持存続)・異(変化・老化)・滅(無常性)のさけがたきものであること、あるいは無常性につかぬかれたものであることが語られているのです。以上「いろは」のはじめの二句は、施身聞偈・無常偈の「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり/法なればなり」の意を述べ、いわゆる三法印であるところの「諸行無常」「諸法無我」を説いているのです。