三帰依文の一つに

 

弟子(某甲)願従今身尽未来際 

帰依仏両足尊(帰依仏陀両足中尊、無上尊) 

帰依法離欲尊(帰依達磨離欲中尊、離塵尊)

帰依僧衆中尊(帰依僧伽諸衆中尊、和合尊) があります。

 

義淨(635-713)訳『根本説一切有部毘奈耶』(大正No.1442,Vol.23,1030b29-c2:當自稱名。盡一形世。歸依佛兩足尊。歸依法離欲尊。歸 依僧衆中尊)、同訳『根本説一切有部百一羯磨』 (大正No.1453,Vol.24, 456a4-6:我某甲始從今日。乃至命存歸依佛陀兩足中尊。歸依達摩離欲中尊。歸依僧伽諸衆中尊。如是三説)が、その出典のひとつです。なお「願從今身盡未來際」とする同文は、天台第六祖・湛然(711-782)の『授菩薩戒儀』一巻(通称『妙楽十二門戒儀』)に見えます(CBETA漢文大蔵経参照)。

 

「(願從今身)尽未来際」は「未来の辺際を尽くす」までと読み、「永遠に」のように無限と同義で副詞的に用いられるとあるのですが、チベット仏教で唱えられるように、私たちひとりひとりが菩提樹下に至り、「さとりを開くまで」(byang chub bar du)、という意味として受けとめる方がより良いのではと、私などは考えています。

 

さて昨夜、奈良康明「『真実語』について ―仏教呪術の一側面―」『日本仏教学会年報』38, 1972を読んでいて、Divyāvadāna (ed. Cowell and Neil,p.154, 19-26. Cp. P.155, 1ff.) における一文が、その「三帰依文」に意味的に対応することを知りましたので、示しておきます。それは奈良論文では、以下のように翻訳されています。

 

「足なき生物、二足また多足の生物、形なき生物、形ある生物、意識あるもの、また無意識のもの、意識なきもの、無識でないもの、こうした一切の生類の中で如来・阿羅漢・正等覚者は最上のものといわれる。有為法であれ無為法であれ、法の中で欲を離れた(仏陀の)法は最上のものといわれる。サンガ、ガナ、ユガ、パリシャッド等すべての団体の中で、如来の声聞弟子のサンガは最上のものといわれる。」

 

ブッダ釈尊が「両足尊」(「両足中尊」)であるとは、一切の生類の中で最もすぐれた者であるという意味であることがよく分かります。ではなぜ「両足尊」であるのでしょうか。いろんな説明方法がありますが、ここでは『南方仏教基本聖典』ウ・ウェープッラ (著)より、「仏の十徳」(十号、如来十号)を記した文章をご紹介しておきます。

 

かの世尊(so bhagava)は(煩悩から)遠いこと、(煩悩の)敵を殺したこと、輪廻の輪の輻を破壊したこと、(悪を)隠さないこと、物などを受けるに値することのよって阿羅漢(arahan応供)であり、正しく自ら一切法を覚ったことのよって正自覚者(samma sambuddho正徧知)であり、三明・八明・十五行を具えることによって明行具足(vijja carana sampanno明行足)であり、涅槃に達したこと、善い話をすること、善く修行して来たことによって善逝(sugato)であり、有情の世界、現象の世界、空間の世界を知ることによって世間解(lokavidu)戒などが無上であることによって無上士(anuttaro)であり、制御されるべきものを制御することによって調御丈夫(purisadamma sarathi)であり、神々や人間を教誡することによって天人師(satha deva manussanam)であり、四つの聖なる真理を自ら覚り、自己の覚った道を世間に覚らせることによって(buddho)であり、自在・(道・果・涅槃の)出世間法・名声・吉祥・意欲・努力精進の福運があることによって世尊(bhagavati婆伽梵)である。

 

 

 

仏法僧の三宝に帰依しているかどうかは、私たちが「仏教徒」なのかどうかを分ける基準である、といいます。私は「仏教徒」ですと胸を張っていうべきことでもありませんが、ブッダ釈尊の教え、その伝統を受けつぐ大乗仏教、そして真言密教の教えを大切な拠り所としています。三帰依文は、十分に理解してお唱えすべきものなのです。折に触れて理解を深めたいと考えています。