「明王」と呼ばれる仏さまの起源について

 

『明王像のすべて』枻出版社2014の返却期限が迫り、本書を頼富本宏先生『マンダラのほとけ』東京美術2004とともに、いまいちど読み返しています。さて、先の投稿(2024-11-28)において、

 

インドの精霊神(鬼神)であり、「仏陀釈尊に従属する・薬叉(yaka)はヴィドャー・ダラ(vidyādhara)と呼ばれる、“神秘的な力を持つことば” vidyā、そのことばの呪力を持つdhara存在となり、仏教に取り込まれたヴィドャー・ダラ(持明者)は新たなる尊格を形成し、漢語で『明王』と呼ばれるようになりました」

 

と記し、「明王」の中で、孔雀明王と不動明王がそのはじまりに位置すると申し上げました。ここでいまいちど「明王」と呼ばれる仏さまの起源の、仏教文献内での考察に基づく一の仮説として、いままで学んだ知識を総動員して(少し大げさですが)、私なりの考え方をまとめておきます。

 

「明」(vidyā)は、「知る」という意味の動詞√vidから派生した「知識」(技術、専門的な知識)を示す女性名詞です。「明」を有する存在が「持明者」(vidyādhara)です。仏陀釈尊の侍衛者であり、「持明者」と呼ばれようになる薬叉(yakṣa)は通常、金剛杵(vajra)を手にしています。このような特色をもった存在が数多く集まり、初唐代に中インド僧阿地瞿多によって訳出された『陀羅尼集経』において、「金剛」という名称のつく尊格グループを形成して、金剛蔵菩薩の眷属となると同時に、金剛阿蜜哩多軍荼利、金剛烏枢沙摩、大青面金剛という、多面多臂の「忿怒」の姿を取る尊格を生み出します。

 

一方「明」は、真実語(saccakiriyā; satyavacana)のように、ものごとの真実に働きかける、神秘的な効力を有することばであり、儀礼に用いられる聖なることばである「真言」(mantra)、そして修得した、修得すべき知識・教理内容を憶持する有効な手段として用いられる「陀羅尼」(dhāraṇī)と同等に扱われるようになります。「明王」とは、真言や陀羅尼の神秘的な効力を体現した(embodied)尊格に対する名称なのです。孔雀明王(呪句としては、大孔雀明王陀羅尼Mahāmāyurī vidyārājñī)はまさしく、この段階での独自尊としての「明王」であり、それより少し遅れて登場する不動明王は、前述の「金剛」という名称のつく尊格グループとは別枠として(もちろんその隣接するところですが)、仏さまの体系、マンダラの中に配置された段階での「明王」をいうのです。

 

東京国立博物館 平安時代、12世紀の作品。通常、明王像は忿怒の姿をとりますが、この孔雀明王は柔和な姿の菩薩の相をしています。毒蛇を食べる孔雀の力をもって、除災等を祈ります。

 

「明王」と呼ばれる仏さまの起源についての、仏教文献内での見取り図としてレポートしました。このような見通しをもって、各分野の研究者がその学術的成果を語ってくれる論文を読んでみると、よく理解できるようになるのではないかと思うのです。もちろん、仮説は常に修正されつつ、より良い仮説となります。明日にでも、本書を返却しなければなりませんです。ありがとうございます。