先日(2024/12/03)「釈尊の成道から初転法輪までに至る過程」として記事を投稿いたしましたが、本日(12/09)臨済宗大本山円覚寺さまより「ブッダの悟り」と題して、Youtube配信がありました。配信をお聞きして、改めて先日の投稿内容に補足を行っておかなければと考えました。とてもよい機会となりました。ありがたいことです。

 

「ブッダの悟り」では、中村元『ゴータマ・ブッダ 上』(春秋社)に基づいて、まず、二十九歳で出家して三十五歳で悟りを開かれるまで、六年間行われた苦行のようすが詳しく語られます(筆者手元の同著『ゴータマ・ブッダ』1969(1983)では、pp.139-140, p.155にあります)。しかし「激しい苦行をもってしても、なお、人間を超えた、全き妙なるすぐれた智見に達することができない」(MN. No.36, Mahasaccakasutta)ことを釈尊は知り、「苦行を捨て、セーナーニー村地主の娘スジャーター(善生Sujātā)の施食・乳粥をうけて、気力の回復をはかり、身心を調えたうえで、後に「菩提樹」と呼ばれることになる霊樹アシュヴァッタの下に坐り、おさとりを開かれたといいます」と前回の投稿において記しました。

 

そして、前田専學『ブッダを語る(上)』NHK『こころの時代』1992/4を参照して、「そのとき、ブッダ世尊はつい今しがたさとられ(paṭhamābhisambuddho [12/05補] 「はじめてさとりを開いておられた」とも翻訳されます)、ウルヴェーラーのネーランジャラー川のほとり、菩提樹の根もとにおられた。/そして世尊は七日のあいだ菩提樹の根もとで、一たび足を組んだままの姿勢で、解脱の安楽を心ゆくまで味わって坐っておられた」とご紹介したのでした。

 

ではお釈迦さまは、菩提樹下に坐して何をしておられたのでしょうか、いいかえれば、何を悟られたのでしょうか。円覚寺さまは「伝統的には十二因縁を説かれることが多いのです」とし、つづけて「あるとき世尊は、ウルヴェーラー村、ネーランジャラー河の岸辺に、菩提樹のもとにおられた。はじめてさとりを開いておられたのである。そのとき世尊は(菩提樹のもとにおいて、)七日のあいだずっと足を組んだままで、解脱の楽しみを享けつつ、坐しておられた。ときに世尊は、その七日が過ぎてのちにその瞑想から出て、その夜の最初の部分において縁起[の理法]をの順序に従ってよく考えられた」とご紹介されています。手元の同『ゴータマ・ブッダ』1969(1983)によれば、これは『ウダーナ』の所説によるものであり、『律蔵』「大品」では下線部がなく、「ときに世尊は」は、「その夜の最初の部分」にと直結しています。また下線部後者は「順逆の順序に」となっています。「その夜の最初の部分」とは、夜の初めころ(初夜。「そや」と呼ぶ習わしです。午後6時~午後9時)をいい、縁起理法はかさねて、夜の中ごろ(中夜:午後9時~午前1時)、夜の終わりごろ(後夜:午前1時~午前5時の間)に、繰り返し『ウダーナ』では順・逆・順逆、「大品」では三度とも順逆の順序に従ってよく考えられたとあります。

 

では、「その夜の」とはいつのことを指すのでしょうか。『ウダーナ』の所説を念頭にして「その瞑想から出て」とまではいわないものの、「その[七日目の]夜の」と解することもできましょうが、私としては「はじめてさとりを開いておられた」その夜の、と受けとめるのが良いと考えているのです。そのような理解でもって、「七日のあいだずっと足を組んだままで、解脱の楽しみ(十二支縁起を順・逆に考察する)を享けつつ、坐しておられた」と、前回の投稿において述べたのでした。

 

さとりを開かれた釈尊は、菩提樹下に坐して「縁起の理法」を考察されておられたようです。それは菩提樹下に坐された、その日の初夜から後夜、明けの明星が輝くころ、「はじめてさとりを開いておられた、今しがた」のことであるのか、それとも、菩提樹下に坐しさとりを開かれた後、七日目のことであったのか、のいずれかということです。そして何よりもまして「縁起の理法」のという十二支縁起とされる「縁起」(解脱の安楽の状態)の内容を大乗仏典は、密教経典『大日経』、『金剛頂経』はいかに考えているのか、ということを追求するのが私の課題なのです。