今年も十二月に入りました。お寺でも日常の檀務にくわえて、新年をむかえる準備、お掃除などであわただしく過ごしています。12月8日は、お釈迦さまがさとりを開かれた日であるとして、成道会という法要が行われます。成道(じょうどうabhisabodhi)とは、道を完成したということ、ここでの「道」は菩提bodhiを意味します。

 

成道の日を12月8日とするのは、日本国内でのこと。「中国撰述の史書では如月(旧暦2月)の8日に成道されたとし、東南アジア諸国では、お釈迦さまの誕生、成道、涅槃の日は同じ日のできごとであったとして、ウェーサーカとして、5月の満月の日に行なわれます。ウェーサーカ(ウエサク、ウエサカ、Vesak)とは、サンスクリット語の Vaiśākha(ヴァイシャーカ)で、インド暦第二の月を意味します。(Wikipedia「成道会」、「ウェーサーカ祭」参照)

 

さて今年の成道会をむかえるにあたり、明らかにしておきたいと思う課題がひとつあります。お釈迦さまは六年間つづけられた苦行を捨て、セーナーニー村地主の娘スジャーター(善生Sujātā)の施食・乳粥をうけて、気力の回復をはかり、身心を調えたうえで、後に「菩提樹」と呼ばれることになる霊樹アシュヴァッタの下に坐り、おさとりを開かれたといいます。明らかにしておきたい課題とは、お釈迦さまが菩提樹下での三昧を通して(「精神集中の状態」)さとりを開かれてから、初転法輪に至るまで、どれほどの時間の経過があったのかということ。そんなことって分かるのですかといわれそうですが、チベット仏教圏内では、それは49日後のことであるとします。つまりチベット暦の6月4日はお釈迦さまがヴァーラーナシーの鹿野苑の地で初めて法輪を転じた日であり、ブッダガヤーでの成道は4月15日とされているのです(文殊師利大乗仏教会2018.07.15、野村正次郎「初転法輪とは何かを考える」を参照)。

 

歴史的事実としては分からないとしても、仏伝などの資料によれば、どのように考えられるかということです。もちろん多くの資料があり、内容も、解釈も相違するでしょうから、一律的なことが申せませんが、まずは前田専學『ブッダを語る(上)』NHK『こころの時代』1992/4を参照して考えてみます。そこでは、仏伝の中でも古い記録とされている『律蔵』中の『マーハーヴァッガ』(『大品』)という文献が活用されています。なお同『ブッダを語る』日本放送出版協会1996/5では、『マーハーヴァッガ』からの引用は多少省略されています。

 

まずは菩提樹の下にて「そのとき、ブッダ世尊はつい今しがたさとられ、ウルヴェーラーのネーランジャラー川のほとり、菩提樹の根もとにおられた。/そして世尊は七日のあいだ菩提樹の根もとで、一たび足を組んだままの姿勢で、解脱の安楽を心ゆくまで味わって坐っておられた」(前田[1992:162-163]、同[1996]には引用なし。「/」は改行を示します)。お釈迦さまは、仏教の根本思想の一つとされる十二支縁起(「十二因縁」とも)の理法を観察して、さとりを開かれたと伝えられることもあることからすれば「解脱の安楽を心ゆくまで味わって」とは、文字通り、煩悩のすべてが滅尽した状態、あるいは、認識の構造が純化された状態を、とすることのほか、より具体的に、十二支縁起を順・逆に考察されていたと理解することもできるでしょう。【太字部分は12/09訂正】

 

「さて世尊は七日が過ぎると、その三昧より立って、菩提樹の根もとからアジャパーラ・ニグローダ樹のところへ行き、その樹の根もとで七日のあいだ(筆者補:成道後八日目から一週間)、一たび足を組んだままの姿勢で、解脱の安楽を心ゆくまで味わって坐っておられた」(前田[1992:172])。このとき、お釈迦さまのもとへやってきたバラモンとの間で、真のバラモンの条件・資格を問う問答がなされたといいます。

 

「さらに世尊は七日が過ぎると、その三昧より立って、アジャパーラ・ニグローダ樹の根もとからムッチャリンダ樹のところに行き、その樹の根もとで七日のあいだ(筆者補:成道後十五日目から一週間)一たび足を組んだままの姿勢で、解脱の安楽を心ゆくまで味わって坐っておられた」(前田[1992:177])。このとき、時季はずれの雨が七日のあいだ降りつづいたのですが、[そこを]棲かとするナーガ(nāga)の王・ムッチャリンダが姿をあらわし、お釈迦さまの身体にとぐろを巻いて七日間守護したといいます。

 

 

「さらに世尊は七日が過ぎると、その三昧より立って、ムッチャリンダ樹の根もとからラージャーヤタナ樹のところに行き、その樹の根もとで七日のあいだ(筆者補:成道後二十二日目から一週間)一たび足を組んだままの姿勢で、解脱の安楽を心ゆくまで味わって坐っておられた」(前田[1992:181])。このとき、二人の商人からの施しの食物(麦菓子と蜜団子)を、四天王が献じた石鉢をもって受けるとともに、礼拝をうけたといいます。いまだ布教活動を開始する以前に、その二人が最初の在俗の信者となったということです。

 

「さらに世尊は七日が過ぎる(筆者補:成道後二十九日目)と、その三昧より立って、ラージャーヤタナ樹の根もとからアジャパーラ・ニグローダ樹のところに行かれた。そして世尊はそのアジャパーラ・ニグローダ樹の根もとにおられた」(前田[1992:186])。そしてこのとき、世界の主・梵天(ブラフマー神)による説法の懇請がありました。それは次のようなことばによってでありました。

 

「尊き方よ、世尊は教えを説いて下さい。幸福な人(善逝)は教えを説いて下さい。この世には、心の眼の汚れの少ない類の人々がおります。教えを聞いていないので退歩していますが、聞けば教えを了解する人々はありましょう。」、「いまこそあなたは不死へのこの門を開いて下さい。」、「憂いをすでに超えたあなたは、真理よりなる高楼に登って、憂いに沈み、出生と老いに打ちひしがれた人々をよく見て下さい。立ち上がって下さい。勇者よ、勝戦者よ、(中略)世尊は教えを説いて下さい。聞けば了解する人はありましょう」(前田[1992:186])。

 

梵天の勧請は三たび行われたといいます。お釈迦さまはそれに応えられて、「耳ある者たちに不死へのもろもろの門は開かれた。浄信を発こせ」(前田[1992:196])と、お声を発せられたのです。

 

なお片山一良『「ダンマパダ」をよむ ブッダの教え「今ここに」(上)』NHK『宗教の時間』2007/4では、梵天勧請は「成道から五十日目のこと」としています。それは菩提樹の根もとからアジャパーラ・ニグローダ樹へと趣かれたのを成道第五週のこととし、成道後四週間(28日間)は菩提樹の近くで過ごされたとするからです。(でもその違いは、さほど大きな問題となるとは私は考えません。)

 

梵天勧請をうけ、すぐに五比丘のいるヴァーラーナシーの鹿野苑の地へと向かったとしても、その距離は約260キロ。車に乗って移動すれば7時間、徒歩では7日といいます(円覚寺2024.02.14.仏跡巡拝の旅 ―その三―参照。前田[1996]は「どんなに早く歩いたとしても10日間は充分にかかった」と推定しています。)

 

以上いまだ確かなことはいえませんが、お釈迦さまがおさとりを開かれてから、五比丘に対する初転法輪が行われるまでには、ある程度の時間の経過があったとだけはいえるのです。

 

このようないわば歴史的な理解に対して、大乗仏教では全く異なった受けとめ方をします。「そもそも成道したブッダが(「ただちに」筆者補)説法をしないことはあり得ないのであって、最勝の化身たる釈尊は(「菩提樹下にあって」筆者補)、神々が打ち鳴らす鼓のように途切れることなく説法をしていたが、所化の業(「劫」を「業」に訂正)に応じて説法の声が聴取されたかの違いがある」(前掲の、文殊師利大乗仏教会2018.07.15、野村正次郎)という理解があり、たとえばそれは天台大師智顗の「五時」の教判による『華厳経』の説時を成道後21日間とする解釈のような発想をいうのでしょうか。また密教経典である『初会金剛頂経』は「現証等覚すること久しからず」(acirābhisaṃbuddha)の大悲ビルシャナ如来を教主とし(『マーハーヴァッガ』「そのとき、ブッダ世尊はつい今しがたさとられ」のパーリ原語を確かめる必要があります。【paṭhamābhisambuddho でした.12/5】それを「はじめてさとりを開いておられた」と翻訳される例もあります)、そして『大日経』に至っては、その経は世尊ビルシャナによって遍一切処・三世常恒にわたって説示されていると理解するのです。なおもうひとつ明らかにしておきたい課題があります。それは、お釈迦さまはどのように、何をさとられたのか、ということです(でもこの課題については、特に十分注意して論じなければなりません)。