道場ということば

 

「道場」ということばは「武芸の修練を行う場所。また、広く心身の鍛錬などを行う場所」と説明がありますが、元来は仏教用語であり、お釈迦さまがさとりを開かれたブッダガヤーの菩提樹下の金剛座をいいます。それを「菩提道場」、略して「道場」とあるのです。

 

道場について、鳩摩羅什訳『維摩詰所説經』(『維摩経』)というお経の中には、「直心是道場無虚假故(直き心がすなわち道場である。虚假がないから)」ではじまる、菩提道場をめぐる一連の教えが示されています。直き心が道場であるとは、真っ直ぐな、素直な心が菩提道場である、ということ。正直な心、自分をもそして相手に対しいも嘘偽りのない心をもって生活を行うことができるのなら、そこが「道場」(さとりを開く場所)であるという教えであります。またその中には、「慈是道場等衆生故(慈しみがすなわち道場である。衆生を等しく見なすから。)」、「悲是道場忍疲苦故(憐みがすなわち道場である。他人のために労苦をたえ忍ぶから。)」などがあり、自分と他者を等しく大切にする心でもって、そして苦しみにある相手の心を和らげ、相手から受ける苦しみにも耐え忍ぶことのできる心をもつことが「道場」であるという教えもあります。

 

また「諸煩惱是道場(諸の煩惱がすなわち道場である)」というびっくりするような記述もあるのですが、それには「知如實故」と理由が示されているように、煩悩という厄介な心の働きを[克服することを]通して、ものごとの真実のすがたを正しく知ることになるから、という意味なのであります。ちなみに、【玄奘訳】は「息諸煩惱是妙菩提。如實現證眞法性故」とあり、長尾雅人先生によるチベット語からの和訳では、「真実のあるがままを完全にさとるのであるから、あらゆる煩悩の鎮静がすなわち妙菩提である」とあります。

 

まごころを持って倦まず弛まず、困難なことに対しても、あやまることなく、正しく対処し、途中で挫折しても、また再び努め励むことができるのなら、どんな人でも、どんな世の中でもよりよく変えてゆく事ができる、といいます。道場とはまた「増益功徳」、まさに幸を生みだす場所であり、「道場」は私たちそれぞれの日常生活そのものの中に見出されるのです。 画像は、大津石山寺にいらっしゃる維摩居士のお像です

 

 

 

(参照)

臨済宗大本山円覚寺「素直な心」2021.03.16

長尾雅人訳注『改版 維摩経』中公文庫1983

中村元『維摩経』『勝鬘経』現代語訳大乗仏典3東京書籍2003