チベット寺院の経堂の入口には、生死輪(しょうじりん)・五趣(ごしゅ。六道とも)輪廻図と呼ばれる、とてもカラフルな絵画が描かれています。それは「四諦の何を捨て(もちろん、苦諦と集諦ですね)、何を取るべきか(おのずから、滅諦と道諦です)を正しく理解させるため」に、といわれ、インド仏教以来の伝統にもとづくものです。生死輪・五趣輪廻図については、「六道輪廻図―Tibet House Japan」、「縁起と輪廻―六道輪廻図を読む―東洋大学(Web体験授業)堀内俊郎教授」、「仏教を学んだ上で輪廻を信じる2014/11/24」文殊師利大乗仏教会などで詳しく学ぶことができます。

 

チベット寺院における生死輪・五趣輪廻図はほぼ共通しているのでしょうが、やはり色合いや細部に違いがあるようです。いま図版など手元にある数種を比較してもそのようです。そのうち二種を添付しました。いずれも数十年前にいただいたもので、一枚は彩色画の複写(A図)、一枚はモノクロの版画(B図)です。複写元、入手の経路は忘れてしまいました。加えて先のTibet House Japanのサイトでもさらなる輪廻図が御覧になれます。それは『ダライ・ラマの仏教入門』石濱裕美子訳、光文社1995所収のものとほぼ同じものです。

 

ここではその二種(Tibet House Japanを加えれば三種)の図にもとづき、そして「輪廻図の描きかたについて」ツルティム・ケサン・カンカル先生『日本西蔵学会会報』41/42, 1997を参照しながら、生死輪・五趣輪廻図の意味するところを、画面上の細部の違いにはさほどこだわらず、簡潔にご説明申し上げます。

 

まず目に飛びこむ大きな輪があり、その下部は三つに区分されます。A図では一番下中央が地獄であり、その左(向かって右)は餓鬼、右は畜生の趣(gati)です。餓鬼は地獄と同じく苦しみが絶えませんが、口から火を吐いているのが焔口餓鬼なのでしょうか。(B図は左右逆さとなっています。)上部は二つ、あるいは三つに区分されます。二つに区分されるA図に基づいて説明しますと、右(向かって左)は人、左は天です。人趣には須山の東側に位置するとされる勝身洲(半月形。図では半円)、同じく西・瞿陀尼洲(牛貨洲とも。円形)、北・倶盧洲(正方形)、南・瞻部洲が描かれるのですが、それぞれ形によって見分けることができます。南・瞻部洲の「正三角形に近い台形」は描かれませんが、私たちの暮らす世界が瞻部洲であり、その瞻部洲の下にのみ地獄(地下の世界)があり、餓鬼、畜生が「盈満(ようまん)して、不善聚多し」というのですから、この図全体を瞻部洲、私たちの生存する世界と理解してもいいようです。上部左(向かって右)は天です。その三分の一は阿修羅の趣となります。Tibet House Japanのものは上部右三分の二が天であり、仕切り線なく天と阿修羅が描かれています。B図は三つに区分されています。

これら五趣(阿修羅を加えて六趣)は三苦にも対応します。地獄・餓鬼・畜生の三悪趣は苦苦(くく)であり、欲界に属する天(六欲天)と人は壊苦(えく)、そして色界の十七処は行苦(ぎょうく)に対応します。A図の白い雲の下の建物はその色界四禅(しぜん)十七処なのでしょうか。(行苦を断じない限り、有情は苦しみつづけます。)

 

大きな輪の中央には、三界六種に輪廻する原因となる貪欲(とんよく)と瞋恚(しんに)と愚痴(ぐち)が、それぞれ鳩(または鳥)、蛇、豚(または猪)の姿で表されています。愚痴(有身見の無明)を表す豚は真ん中に、その豚の口からは貪欲を示す鳩、鳩の口からは瞋恚を示す蛇が出ているように、それぞれ繋がるようにして描かれています。A図および、Tibet House Japanのものはさらなる円があり、後者では白黒に色分けされています。それぞれ善なる行い(白業)、不善なる行い(黒業)を表現し、いずれも輪廻の生存を繰り返させる、有漏なる行いです。あるいは天の中有、悪趣の中有とも解釈されることもあります。(また、人の中有は、後述の十二支縁起が描かれる下地としての白い布で表すという理解もあります。なお、A図の地獄の左右に描かれている紅白の帯び状のものは何なのか不明です。)

 

生死輪の中、すなわち輪廻の生存、無常・苦・無我のただ中で、私たち有情は自由を奪われて流転します。それは死魔(死神)が四肢、手足の爪(A図の、薬指)で生死輪を抱えこみ、死魔の口で咥えられています。その下顎がみえません。死魔の頭には髑髏が見えます。

 

一方、生死輪の外は輪廻の生存を脱した世界です。白い輪(月輪)は涅槃の状態を表し、それを釈迦牟尼仏が人差し指で指し示しています。生死を脱し、菩提に至るまでは、いかなるものといえども涅槃の状態は実現されないことを示します。私たちは菩提を体得し、自と他、すべての生きとし生けるものためになることを実践することを生きがいとします。(大乗仏教では、無住処涅槃が主張されます。)

 

私たちは、この苦の生死輪(輪廻の生存)から、いかに脱することができるのでしょうか。それを示すのが、生死輪の外枠に描かれる十二支縁起の教説です。上部から時計回りに、1無明・盲目の老人、2行・轆轤(ろくを)を回す陶工、3識・六つの窓を出入りする猿(A図では、木の実を取る猿)、4名色・三本の棒、三脚の例えとしての舟に乗る人、5六処・空き家、6触・接吻、7受・眼を矢で射ぬかれた人、8愛・飲酒する人(A図では、酒を二人で飲み交わす)、9取・木の実を取る猿(A図では、3識との関係上、人となっています)、10有・出産間際の妊婦、11生・子供の誕生(出産)、12老死・死体を負う人(あるいは死者)を表します。すべての現象は無数の直接的原因(因)と間接的原因・条件(縁)によって成立しています。「1無明によって2行があり、云々」(順観。どのようにして輪廻しているのかと、輪廻の仕組みを知り、輪廻することの苦しみを知る。)、「1無明の滅によって2行の滅があり、云々」(逆観)と、十二支縁起は順観と逆観の仕方で繰り返し、繰り返し考察します。詳しくは、『ダライ・ラマの仏教入門』等をご参照ください。

 

以上で、生死輪・五趣輪廻図の意味するところを説明しました。Tibet House Japanのものには、その下部に紺地金泥で記されている文字がみえます。それは、以下のような意味です。

これを取り、それを捨て、仏陀の教えに入りなさい。藁ぶき小屋の中の象が小屋をなぎ倒すように、死神の軍をうち負かしなさい。

周到な用心深さをもって、この戒律の教え(あるいは、戒律と教え)を実践するものは、苦に終わりをもたらし、生存の輪(輪廻)を捨てるであろう。

『ダライ・ラマの仏教入門』pp.40-41.

 

私は幼いころ、菩提寺のお堂で地獄図を見たことがあります。とても怖かったように記憶しています。いまでも地獄図・極楽図を掲げた墓地霊園が、ときどき出向くだけでも三ケ所ほどありますが、それはなんだか面白いタッチで描かれ迫力に欠けます。一方、チベットの生死輪・五趣(六道)輪廻図は、身に迫るものがあると感じるのは、私だけではないでしょう。 合掌