難信之法(信じがたいほどの尊い教え)
阿弥陀経では、経の結びをむかえるにあたって、「阿耨多羅三藐三菩提」(あのくたら・さんみゃく・さんぼだい。この上ない正しく完全なさとり。常に、身安楽にして心浄らか、そして無礙なる状態)ということばを四たび繰り返しています。とても意味深きことであり、阿弥陀経をお唱えするときには充分注意を払います。一般的にいって、経の中において、繰り返し説かれる語にはよくよく注意しなさいよと、私は教えていただきました。
さて、四たび繰り返えされる「阿耨多羅三藐三菩提」ですが、まず後者の二つは、この五濁の悪世において、釈迦牟尼仏(お釈迦さま)が阿耨多羅三藐三菩提を得て、私たちのために、この信じがたき、阿弥陀仏のご存在、ご誓願を説き明かされたという文脈で語られています。一方、前者の二つは「善男子(ぜんなんし)、善女人(ぜんにょにん)、皆、阿耨多羅三藐三菩提を退転せざるを得ん」(誰でも、みな等しく、この上ない正しく完全なさとりに向って退くことのない状態となることができる)とあるものです。それは先に、阿弥陀経の中で、極楽の地に生まれたる人々は、すべて「阿鞞跋致」(あびぱっち)である、すなわち、さとりへの道において後退することなく者であると語られていたことと呼応しています。すなわち、お浄土でいま過ごされているお方は、みな、さとり(理想的な人格の体現)への道を着実に進まれているということなのです。
ではどうすれば、この上ない正しく完全なさとりに向って退くことのない状態となるのでしょうか。阿弥陀経はいいます。まずひとつは「この経を聞き受持せば」(世尊阿弥陀の名を聞き、心に保って忘れないようにすれば)とあり、もうひとつは、「阿弥陀仏国に生ぜんと欲せば」(世尊阿弥陀の仏国に生まれるようと心に願いをたてること)とあります。
お念仏をお唱えすれば(ご真言をお唱える、もしくはお題目をお唱えすれば)、常に、身安楽にして心浄らか、そして無礙なる状態となれます。いのち尽きた後、阿弥陀の仏国に生まれたいと願うこと、阿弥陀さまのお浄土にむかえていただけるのだと念ずることで充分なのです。仏さまのご誓願がお念仏(お題目、ご真言、お経)となって私たち、ひとりひとりに届き、そして私たちの声を通してあらわれる。お念仏(お題目、ご真言、お経)を通して、私たちはみな等しく、この上ない正しく完全なさとり、常に、身安楽にして心浄らか、そして無礙なる状態に向って退くことのない状態となるのです。しかしながら、それは「信じがたき」(難信)ことだとあるのですが、お釈迦さまは、それを私たちに説き明かしてくださったということは、私たちにはそれを正しく受けとめることができるということを見越してのことなのだということは忘れないでいたいものなのです。
阿弥陀経の本文より第四の用例をご紹介しておきます。これが阿弥陀経の締めくくりのことばなのです。「舍利弗(しゃりふ)当知(とうち)。我於(がよ)五濁惡世(ごたくあくせい)行此難事(けいしなんし)得(とく)阿耨多羅三藐三菩提。爲(い)一切世間(いっせいせいかん)説此難信之法(せっし・なんしんしほう)。」
画像は、兵庫県小野市浄谷町にある浄土寺 (じょうどじ)の阿弥陀三尊さまです。
合掌