僧侶としてお伝えしたいこと、お伝えできること(14)三帰礼文
仏典を読むために必要な語学についてはひと通り学びましたが、翻訳を参照しながら原文をたどるくらいが精一杯です。指導をうけた先生のお一人は、仮に原文を読む語学力がなくとも、複数の翻訳を参照比較すれば、原文を読んだと同じくらいの理解がえられますよとおっしゃってくださったことをいまでも憶えています。
さて、ここでは三帰礼文と呼ばれる以下の偈文を取り扱います。それは
自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無礙
です。三帰依の文はこれ以外にも、
弟子何某尽未来際 帰依仏 帰依法 帰依僧
帰依仏両足尊 帰依法離欲尊 帰依僧衆中尊
などがあります。ここで考察する三帰礼文の出典は、佛馱跋陀羅譯(420年訳出)六十巻『大方広佛華厳経』卷第六「浄行品第七」です。(原文では「自帰於佛」等となっていますが、意味的には何ら変わりませんので指摘するのみ。)一般に訓読して唱えるときは、
自ら佛に帰依したてまつる 当に願わくは衆生とともに 大道を体解して 無上意を發さん
自ら法に帰依したてまつる 当に願わくは衆生とともに 深く経蔵に入りて 智慧、海の如くならん
自ら僧に帰依したてまつる 当に願わくは衆生とともに 大衆を統理して 一切無礙ならん
となります。ここでは特に「体解大道 発無上意」(大道を体解して 無上意を発さん)について考えます。それは実叉難陀訳(699年)『八十巻華厳』では「詔隆佛種 発無上意」となっていることにも起因します。
まず、木村清孝『華厳経』仏教経典選5、筑摩書房1986を参照します。本書では訓読を「自ら佛に帰せば 当に願うべし、衆生、大道を体解して、無上の意を発さんことを」と示し、現代語訳は「自ら佛に帰依するときには、衆生が大いなる道をその通りに理解し、この上ない(さとりへの)心を起こすようにと願う」とあります。ちなみに「統理大衆 一切無礙」は「(衆生が)大衆を統べ理(おさ)めて、あらゆることに障害がないようにと願う」と理解されています。
考察をはじめるにあたって看過できない確認事項があります。それは、この一節は、「菩薩の利他の願いと実践が(ひとつひとつ)具体的に説かれる」(木村清孝)と解説される「浄行品」にあり、「在家のときの願い」につづく「出家に際しての願い」という文脈の中で語られているということです。すなわちこれは、礼拝のための文章ではなく、三帰依を行うときの、大乗菩薩としての誓願を表わしたものであるということです。ですから「自ら佛に帰せば 当に願うべし」と読むべきところを、「自ら佛に帰依したてまつる 当に願わくは衆生とともに」として礼拝文としても読めるように手直しされているということです。このように訓読を施されたのは、「人身受け難し」云々の作成者とされる、大内青巒(1845-1918)であられるのでしょうか。
さて「体解大道 発無上意」ですが、『六十巻華厳』よりも訳出が古い、西晉・聶道真訳『諸菩薩求佛本業経』における平行句は次の通りです。
菩薩自帰於佛時、心念言、十方天下人、皆使無不歓楽於佛法、悉生極好処(皆、佛法を歓び楽わざる[という]こと無く、悉く極好処に[心を]生ぜしむ)
菩薩自帰於経時、心念言、十方天下人、皆使無不得深経蔵、所得智慧如大海(皆、深き経蔵を得ざる[という]こと無く、得るところの智慧、大海の如くなららしむ)
菩薩自帰於僧時、心念言、十方天下人、皆使無不得依度如比丘僧、有所依度楽於佛道徳(皆、比丘僧の如く[に]、依度を得ざる[という]ことなく、依度せらるところ有り、佛道の徳を楽わしむ。)
漢訳は読みづらいです。誤りを懼れますが、( )の中に一部分の訓読を試みておきました。次いで、チベット語訳を参照します。
sangs rgyas la skyabs su ‘gro ba’i tshe / byang chub sems dpas sems can thams cad dge ba la mos pa mngon par skyes bas / sangs rgyas kyi gdung (*buddha-vamsa) mi ‘chad pa’i don du brtson par gyur cig ces sems bskyed do // sde rge ed., ka 213b4-5. (佛に帰依するとき、菩薩はあらゆる衆生が善なるものへの勝解を生じて/生じることで/佛種が途切れることなきよう努めますようにと心を起こす。)
「発無上意」の「無上意」は、「この上なき心」、菩提心(bodhicitta)を指していることに間違いはないでしょう(?「極好処」)。『八十巻華厳』「詔隆佛種(*buddha-vaṃsa佛の家系を受け継ぎ、盛んならしむよう)發無上意」は、チベット語訳と類似するところがあります。
次の課題である「體解大道」です。『求佛本業経』にも直接対応する句はないようですが、あえていえば「無不歓楽於佛法」(佛法を歓び楽わざる[という]こと無く)に対応しているといえるでしょうか。またチベット訳の「善なるものへの勝解を生じて」も参考になります。「體解」は辞書には、「身をもって理解すること」(中村元『仏教語大辞典』)、「体は通達、解は悟解」(織田得能『仏教大辞典』)とあります。想定されるサンスクリット語はadhi√gamの派生語であり、チベット語訳のmos paはadhi√muc(対象をいかなるものであるかを確認する)の派生語なのでしょう。そして「大道」を「大いなる道」(木村清孝)とする理解がなされ、チベット語訳のdge ba(*kuśala善なるもの)を尊重し、そして道は「菩提(bodhi)」の意味もあることを踏まえて、「自歸依佛 當願衆生 體解大道 發無上意」の一句を「私はまさに佛に帰依いたします。それは、すべての生きとし生けるものが(私とともに/私が行うそのように)、さとりへと至る大道(であり、かつ、さとりの本質)をよく理解して、菩提を求める心/菩提の心/を生じることを願ってであります」と現代語訳したいと考えます。
「大衆を統理して 一切無礙ならん」も意味は取りづらいのですが、木村清孝による現代語訳は上記に示してあります。チベット語訳では、次のように翻訳されています。
dge ‘dun la skyabs su ‘gro ba’i tshe / byang chub sems dpas sems can thams cad chags pa’i gnas dang brang zhing dge ‘dun yongs su sdud par gyur cig ces sems bskyed do // sde rge ed., ka 213b5-6.
僧の集団サンガに帰依するとき、菩薩はあらゆる衆生が貪欲の処(*ālaya)を遠離して、僧の集団サンガを摂受(摂護)pari√grahするようにと心を起こす。
(補足として)
「さとりへと至る大道(であり、かつ、さとりの本質)をよく理解して」とはどういう意味ですか、と自ら問い簡潔に答えておきます。それは、四聖諦の滅諦、さとりと表現されるその状態と、道諦、さとりへと至る道をよく理解して、ということであります。また「自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海」のチベット語訳は次の通りです。
chos la skyabs su ‘gro ba’i tshe / byang chub sems dpas sems can thams cad chos kyi gter rab tu thob par gyur cig ces sems bskyed do // sde rge ed.
法に帰依するとき、菩薩はあらゆる衆生が法蔵(*dharma-koṣa, dharma-nidhi)を獲得するようにと心を起こす。
最後に、「三宝に帰依する」ということはどういうことか、ということについては、文殊師利大乗仏教会「三宝に帰依する正しい仏教徒が心がけること」2022.09.25がとても勉強になります。 合掌