理趣経 第十七段に付加される心真言・真言文と理趣経十七字の真言
本文についで、[栂尾・泉]本は心真言を、[苫米地]本は数句から成る真言文を付加しています。
[栂尾・泉]svāṃ.
[苫米地]37 oṃ vajra / oṃ sarvatathāgatamāte / mahāsukhavajradhāriṇi / sarvasamatāpraveśani / sarvaduḥkhakṣayaṅkari / sarvasukhapradāyike / sarvasukhapradāyini svāhā //
svāṃ(svāṃ vajra oṃ)について、次のような註釈が参照されます。
(このうち)svāṃ は、吉祥・栄光を有するお方(dpal dang ldan pa. チベット文では、語形が男性形です。śrīmat, -vat)、あるいは慶ばしく、めでたきお方(bkra shis pa)(であること)の表示・特徴である。vajra は金剛の表示・特徴である。oṃ は如来の表示・特徴である。
ソワカ(svāhā)とは、息災(zhi ba. śāntika)と増益(rgyas pa. pauṣṭika)、すなわち慶ばしく、めでたきこと(bkra shis)の意味であり、ウン(hūṃ)とパッタ(phaṭ)は、調伏(mngon spyod. abhicāra)と鉤召(dgug pa. ākarṣaṇa)と畏怖(’jigs par bya ba)の意味であり、この、[諸]部[の]母(rigs kyi yum. すなわち、一切の如来の母、般若波羅蜜多 de bzhin gshegs pa thams cad kyi yum shes rab kyi pha rol tu phyin pa)は、一切の法は善[性](dge [ba])であり、慶ばしく、めでたきもの(bkra shis pa)であるとお示しになられたのであるからと、(再び表示するために、ここで svāṃ vajra oṃと)唱えるのである(gsungs pa’i phyir zhes brjod do // )。
以上は、ジュニャーナミトラ『百五十頌般若(= 略本理趣経)註』からです。いくつか理解できないところもありますが、概ね標準的な理解を記してくださっているようです。
[苫米地]本にみられる真言句について、アーナンダガルバは言及していないようです。
oṃ vajra / オーン、金剛よ(vajra. m. sg. V.)
oṃ sarvatathāgatamāte / オーン、一切の如来を(生み出す)母君よ(-mātā. f. sg. V. Cf. 仏母 bhagavatī. まさしく、女尊としての般若波羅蜜多)
mahāsukhavajradhāriṇi / 大安楽金剛(おそらく、大菩提心)を持ずる女尊よ(-dhāriṇī. MW, p.515. f. sg. V.)
sarvasamatāpraveśani / 一切の平等性(すべてが等しき存在であること。おそらく、大菩提)に浸透している女尊よ(pra-√viś)
sarvaduḥkhakṣayaṅkari / あらゆる苦を滅し盡す女尊よ(√kṣi. MW, p.328)
sarvasukhapradāyike / あらゆる楽を施し(てくださ)る女尊よ(pradāyikā. ? < pradāyaka. pra√dā. MW, p.679. Cf. dāyaka 施主)
sarvasukhapradāyini svāhā // あらゆる楽を与え(てくださ)る女尊よ(pradāyinī <pradāyin)スヴァーハー(めでたし、等の意)
第一句の vajra を除いて、すべて女性名詞が用いられています。それは般若波羅蜜多を女尊とすることで、観想(sādhana)の、法(dharma)と人(= 仏)とを完備した存在、対象としている、と理解していいでしょうか。
このような真言文に対するものとして、私たち真言密教は以下の真言を有しています。
oṃ mahāsukha vajrasattva jaḥ hūṃ vaṃ hoḥ suratas tvam.
これに対して『理趣釈』には以下のようにあります。
この密言(mantra)十七字、すなわち、十七菩薩の種子(bīja)たり。即ち、法曼茶羅と成る。もし、一一の菩薩の本形を画かば、即ち、大曼茶羅と成ず。もし、本聖者の執持する所の幖幟を画かば、即ち、三昧耶曼茶羅を成ず。前の如く、種子の字を各の本位に書くをば、即ち法曼茶羅と名づけ、各の本形を鋳して、本位に安ずれば、即ち羯磨曼茶羅を成ず。
すなわち、この十七字から成る真言句を四種マンダラとして展開することでもって、法(dharma)としての真言に、大(尊格、存在)、三昧耶(本誓)、羯磨(仏業)という、仏そのもの(= 人)が含意されていることを述べているのです。
すこし横道にそれて、休憩をはさみました。次回は百字偈の解説となります。