アメリカンキャバレーとの出会い
1991年初めてカリフォルニアのラカーサフェスティバルに行った。
私はそのちょっと前からニューヨークにベリーダンスを学びに行っていた。
イブラヒム・ファーラーのウィークロングワークショップを受けに。
ニューヨークはとても刺激的な場所で小さなマンハッタンにギュッといろいろな人種や文化が詰まっていた。
ダンスもいろんな種類を学ぶことが出来る。それにしても当てもなく行ったニューヨークでベリーダンス教室を見つけるのは至難の業であった。そしてわかったことは、『ベリーダンス』という名前ではなく『ミドルイースタンダンス』だったということだった。
最初のニューヨークの旅の最後に出会ったレバノン系の振付師、イブラヒム・ファーラー。彼の存在を見たとき、「これは偉大な先生に違いない」と感じた。このダンスは、芸術となりうる、学ぶに値するジャンルだと直感した。
それから私はニューヨークのワークショップに行くようになる。ワークショップには、カリフォルニアからのダンサーたちも参加していた。振付は苦手なようだがショーになると急に生き生きと踊り出す。西海岸かあ?
イブラヒム・ファーラーがアラベスクマガジンという雑誌を出していて、そこにカリフォルニアのイベントの広告が載っていた。
場所はリッチモンドと書いてある。サンフランシスコ?よくわかりもしないで当てずっぽでサンフランシスコまで行った。場所はサンフランシスコ市内ではなかったらしい。バークレーに舞踏家の玉野黄市夫妻が住んでいて、訪ねていった。たぶんそこでリッチモンドの場所について教えてもらったのだろう。
なんとかラカーサフェスティバルの会場にたどり着いた。
ワークショップの会場はリーゾート風のホテルだった。このワークショップは毎日入れ替わり立ち代わりいろんな先生が教える。
それぞれ、得意技や守備範囲が違うようで、完全な振付をやる先生はあまりいなかった。
ジル、ダブルベール、剣、即興、チュニジアンダンス、講義や映像の時間もあった。
振付が覚えられない私にはこっちの方が向いているかも。
日系人はいたが、日本人の参加は初めてのようで、日本から来たというと「どんだけ遠いのか?」と驚かれた。
何年やってるの?と聞かれて「3年。」と言ったら「3年でそんなに出来るの?」と驚かれた。
情報が無いから3年もかかっているのに。たしかにワークショップの受講生は上手な人はあまり多くはなかった。
身体も固い。ワークショップの最中でも、疲れるとすぐお菓子を食べに行ったり、座り込んだりしている。
自由だ。そんなに自由でもいいんだ!すごい!
さて、週末は大きなフェスティバルがあるとのことで、ついに会場となるリッチモンドの市民会館?のようなところに行く。
大きな体育館のようなスペースにたくさんのブースが並び、アメリカ中の衣装屋さんや、CDショップ、フィンガーシンバルのメーカーやダンサーやミュージシャンのブースもあった。
奥に舞台があり、その前に100席ぐらいの椅子が並んでいた。
たいした照明もなくダンサーが順繰りに踊っている。どんな人でも制限時間は7分。
ふぅ~ん、こんな(あまり人が見てない)とこで踊ってるんだ。
と思ったが、時折舞台がパア~ッと明るくなって、あちこちのブースで商品を見ていた人たちがガンガン舞台の近くに吸い寄せられように集まる。実際に舞台が明るくなったわけではないが、これがダンサーの実力というものでありましょう。
明らかにトップダンサーが出ると違う。それを見て私はダンサーとは、みずから発光するものなのだ。と納得した。
演目は自由。詩の朗読とともに踊る人もいるし、籠から蛇を取り出す人もいる。子供からおばあちゃんまで、親子三代で踊っている人たちもいる。
人種もいろいろ、人種によって踊り方も違う。白人は狩猟民族系で自己主張の強さを感じる。黒人ダンサーは、みなリズム感がよく、ドラムソロが得意。南米のダンサーはどことなく呪術的。
それを見て私は『ベリーダンスって血で踊るもんなんだな。』と思った。自分の祖先のルーツが現れる踊りなんだ。
ミドルイースタンフェスティバルと言うが、男性も含め、祭りに参加している人のファッションは、原ヨーロッパの森の民のようだった。
これは、アメリカに移民で来た人たちがそれぞれの故郷を懐かしく感じて集まっているようだった。
ベリーダンスは人類の故郷(ふるさと)の踊りかもしれない。