Going my way

Going my way

いつまでも、俺らしくあるために

1日が回ってくる少ない週末。

急に映画を見に行きたくなり、ある作品を。

 

通勤中に聞いてるラジオで紹介されたそれを、何気なく見に行く。

これも単純に流れてくるタイムラインやゲームや動画に没頭している日々ならば、そう気楽に体は動かない。

 

この1か月、正直葛藤との闘いだった。

突然の先輩の退職意向の報告から、正直な話、その負担を急に請け負うようになり。

事情を聞いて不満はないし、「そっちのほうが大事だよね」って思えるからいいのだけども、予兆というか雰囲気は少なからず年始から感じていたのだけれども、急にそれが来たもので、自分自身の整理がつくまでに少し時間がかかり。

それでもって、今までほとんどしなかった残業が急に増えたりで、自身の心身も間に合っていない。

 

ただこれの繰り返しらしい現場。

「これじゃ、みんな辞めていくよ…」と嘆きたくなる気持ち。

そうできるよく言えば「良い職場」、悪く言えば今どきの「ゆるい職場」なのかもしれない。

 

あるとき、ある行動に対してポツリと言うある人。

「それが生かせる場所があればいいのに…」

いまだに正解なんて出ない自身に、とても刺さるそれ。

本当の意味で、「自分はどうすればいいんだ?」と悩みはじめた、この数週間。。。

 

 

見た作品の主人公の人生があまりにも残酷すぎて、途中息苦しさも感じた。

ただこれで言われていたもっともなことは、「声なき声に溢れた社会になってるんじゃない?」という感じ。

これだけSNSを中心に、個人が情報を発信できる環境はできたのだけれど、そのほとんどが埋もれていて、そのなかにいくつもあるであろう「肝心なこと」が相当数あるんじゃないかと。

もしかしたら、世界に対するとても大事なヒントが埋もれている可能性もあるし、逆に戦乱に追い込むきっかけになるものも掘り出したらあるかもしれない。

そのどれもが、本当は大事にされないといけないのだろうけど、あまりの情報過多でそのほとんどが触れることなく終わっているんじゃないか、というのが本当の意味で危険な方向を生み出してるような気がしてきた。

 

「どこかに救いの手はある」と自分自身も思い続けて過ごしてきたけれど。

20年前に大きく場所を移したのも、その一つの選択とも言えるな、とふと思い返した。

 

一時訪れた「余裕」は、いつしか失ってしまった自分。

年相応に、いろんな声に耳を傾けて、いいものにはどんどん触れていきたいし、自分にも活用できるようでいたい。

 

「不安」は煽るものじゃない。

それに寄り添って、少しでもその感度を減らしていくことが大事なんじゃないのか。

そして先の「光」をわずかでも見せてあげることが、必要なんじゃないのかと思う。

そういうふうに思える、伝えられる人でありたい。。。