素醍醐味
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silentmen

最近嫌な症状が出てくる。

サボリ癖と焦り癖だ。おまけに文まで下手になってきている。当然、話しも、コミュニケーションも。

どうにもならない事をグダグダというのもツライことだが、どうにかなる事をグダグダいうのもツライ。

人生半分降りたくなってくる。

色の勉強1-2

1-2:目が不自由な人の視覚の世界

色が見えるということはどういう事なのだろうか?こう考えたとき不思議に思う事は、目が不自由な人の視覚の世界はどのようなものかという事である。
われわれは、目をつぶっても視覚を完全に失うわけではない。瞼の裏側にわずかながら明かりが見える。それは外からの光が多少入り込むからである。しかし光を完全に遮断した暗室でも、黒い霧のような何かがゆっくり移動するのを体験することができる。これは眼灰または固有灰といわれ、視覚の素地をなすものである。日常われわれが経験する明るさや色みの感覚は、照明によってこの眼灰が白色化または色彩化したものにほかならない。
では目が不自由な人はどうかというと、彼らは、何らかの理由で視覚が機能しないためにこの眼灰でさえ体験することができず、もっぱら暗闇の中にいるのではないかとわれわれは思ってしまう。実際、盲目の詩人・ミルトンは、「おお闇の闇の闇、真昼間の光の中にありながら、かえす由なき闇の身の、無辺際なる日蝕、白日の望、あわれ影さえもなし」と『失楽園』の中で語っている。だが、目が不自由な人の視覚の世界はそうとは限らない。彼らが外界をどう把握しているか話を聞いてみると、われわれと同様その様子を上手に話せるし、場合によっては彼らの方が外界を具体的に詳細に捉えていると感心させられることがある。物の形や質感だけでなく、色の知覚もできていると思えることが多い。

色の勉強1

もはやブログとして機能してないので色の勉強の場とします。


1-1:色の役割

われわれは、外界からの情報をいわゆる五感を通して獲得している。その中でもっとも重要なものは、視覚をとおして得られる情報である。視覚による情報はさらに対象の大きさ、形、運動、質感、および色彩などの情報にわけられるが、中でも色彩は、視覚的印象形成に欠くことのできない重要な情報の一つである。

もしわれわれが色を見分けることができなかったならば、外界に関する情報の量と質は低下してしまい、場合によっては生活に支障をきたすかもしれない。例えば、魚や肉、野菜や果物などの食物が新鮮か、腐りかけていないか、食べごろかなどといったことがわからず、困ることになろう。内科の医師は患者の皮膚の色を見ればどこが悪いかおおよそ見当がつくそうだし、われわれも皮膚の色で家族や友人の体調や心理状態を判断することがあるけれども、そういうことができなくなるおそれがある。
色彩はこのように、食物の鮮度や味覚、人の健康状態といった、われわれにとってもっとも大切な事柄を判断する上で、重要な手掛かりとなっているのである。もちろん、白黒写真や白黒映画のように、画像に色がついていなくてもその内容が理解でき、楽しめる場合もある。しかし、夕日の彼方に消えて行く馬車の光景や火事場の中を逃げまどう人びとの場面などは、白黒だけでは十分に理解できない。これらの映像は、色彩によって表現されたとき、真に迫った効果をもたらす。
このように色彩は、人間の五感や感情を刺激し、臨場感を高める力をもっており、われわれの生活に拡がりと潤いを与えているのである。
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