男はおしぼりで爪を拭き始めた。
丁寧に丁寧に、鏡面に光沢をもたらすような繊細な手つきで。
男は下を向いたまま、正面の席に座る女を瞳だけで覗った。
女は、大窓から差し込む初夏の日差しに溶け込むような笑顔で男を見つめている。
男は再び視線を落とし、おしぼりで爪を拭こうとする。
しかし、もう磨き上げる爪は残っていなかった。
人間の指が十本しかない事に、男は生まれて初めて恨めしく感じた。
完全な手持ち無沙汰である。
不幸中の幸いは、この広い喫茶店の過度席を選んだ事。
ここならば、思い切り後ろの壁に寄りかかる事ができる。
そうでもしなければ、とてもこの環境に耐えられそうにない。
「あ、ねえ聞いてた?今の話」
女は両の掌を会わせ、首だけで男の顔を覗き込んで見せた。
彼女が自分の話に陶酔した時に出る癖だ。
「ああ、聞いてたよ」
「でね、その日お昼から凄い台風が来たんだけど、
台風が来る事、私だけ知らなかったの」
男は瞳だけで天井を仰いだ。
この女、天気予報くらい見なかったのか?。
雲行き見りゃ分かるだろ、そこら辺で「今日台風らしいですね」と一人くらい話してただろうに。
それら全部をこの女はスルーしたのか?、馬鹿じゃないのか。
何の役割も果たしていない飾り物のシャンデリアに、男は怒りをぶちまけた。
彼女の発言に、こんな違和感を覚え始めたのはいつからだろうか。
~天然ボケ~
現代における社会一般通念上、そう形容されるであろう彼女の言動。
その全てが微笑ましく、間違いなく愛おしかった。
しかし、いつからか男の中でそれは説明不能な違和感に変わり、
それまで魅力的だった女の容姿も、のめり込んだ女の身体も、
全てが賞味期限を迎え、想像すると気持ちの悪さすら感じるに至った。
「ねえ、ずっと会えなかったからさ、今度またご飯食べようよ、私おごるから」
会えなかったんじゃなく、会わなかったんだよ。
食後の紅茶を運んだ来たウェイターは、返事に詰まった男にとって救世主であった。
男は必要以上に会釈をし、分かりきっている砂糖入れの中身を確認した。
時間をかけて砂糖を溶かした琥珀色のダージリンに、いつも入れないカットレモンを浮かべた。
・・・彼女は、自分にとってこのレモンのような存在だったのかもしれない。
レモン自体は美味しくもなんともない。
が、レモンティーにはレモンが必要、という概念の上にレモンティーが成立する。
彼女を好きになるために、彼女の言葉を、存在を、
無理やりに美化していった自分に心当たりがある気がする。
男は三杯目の砂糖を入れた。
手持ち無沙汰を救う道具は、もう残っていない。
「またご飯食べに行こうよ」
ティーカップ半分に減った紅茶を飲み干すまで。
世界一難儀な返答を見つけ出すまで、男には猶予が残されていない。
丁寧に丁寧に、鏡面に光沢をもたらすような繊細な手つきで。
男は下を向いたまま、正面の席に座る女を瞳だけで覗った。
女は、大窓から差し込む初夏の日差しに溶け込むような笑顔で男を見つめている。
男は再び視線を落とし、おしぼりで爪を拭こうとする。
しかし、もう磨き上げる爪は残っていなかった。
人間の指が十本しかない事に、男は生まれて初めて恨めしく感じた。
完全な手持ち無沙汰である。
不幸中の幸いは、この広い喫茶店の過度席を選んだ事。
ここならば、思い切り後ろの壁に寄りかかる事ができる。
そうでもしなければ、とてもこの環境に耐えられそうにない。
「あ、ねえ聞いてた?今の話」
女は両の掌を会わせ、首だけで男の顔を覗き込んで見せた。
彼女が自分の話に陶酔した時に出る癖だ。
「ああ、聞いてたよ」
「でね、その日お昼から凄い台風が来たんだけど、
台風が来る事、私だけ知らなかったの」
男は瞳だけで天井を仰いだ。
この女、天気予報くらい見なかったのか?。
雲行き見りゃ分かるだろ、そこら辺で「今日台風らしいですね」と一人くらい話してただろうに。
それら全部をこの女はスルーしたのか?、馬鹿じゃないのか。
何の役割も果たしていない飾り物のシャンデリアに、男は怒りをぶちまけた。
彼女の発言に、こんな違和感を覚え始めたのはいつからだろうか。
~天然ボケ~
現代における社会一般通念上、そう形容されるであろう彼女の言動。
その全てが微笑ましく、間違いなく愛おしかった。
しかし、いつからか男の中でそれは説明不能な違和感に変わり、
それまで魅力的だった女の容姿も、のめり込んだ女の身体も、
全てが賞味期限を迎え、想像すると気持ちの悪さすら感じるに至った。
「ねえ、ずっと会えなかったからさ、今度またご飯食べようよ、私おごるから」
会えなかったんじゃなく、会わなかったんだよ。
食後の紅茶を運んだ来たウェイターは、返事に詰まった男にとって救世主であった。
男は必要以上に会釈をし、分かりきっている砂糖入れの中身を確認した。
時間をかけて砂糖を溶かした琥珀色のダージリンに、いつも入れないカットレモンを浮かべた。
・・・彼女は、自分にとってこのレモンのような存在だったのかもしれない。
レモン自体は美味しくもなんともない。
が、レモンティーにはレモンが必要、という概念の上にレモンティーが成立する。
彼女を好きになるために、彼女の言葉を、存在を、
無理やりに美化していった自分に心当たりがある気がする。
男は三杯目の砂糖を入れた。
手持ち無沙汰を救う道具は、もう残っていない。
「またご飯食べに行こうよ」
ティーカップ半分に減った紅茶を飲み干すまで。
世界一難儀な返答を見つけ出すまで、男には猶予が残されていない。