平成が終わるということで平成のマジシャンRyoを振り返ってみようと思い、つらつら書きます。
これでもだいぶコンパクトにまとめました。
もっと書くと波瀾万丈伝になりそうだったのでやめときます。
とりとめのない、文脈もめちゃめちゃな内容になりましたが、よかったら最後まで見てもらえたら、めっちゃうれしいです。
「キッカケは母親が買ってくれた一冊の本だった」
マジックに出会ったのは8才の時だった。
その当時はマジックブームでミスターマリックさんや
トランプマンさん、海外の有名なマジシャン デビットカッパーフィールドさんなど
数多くのテレビ局でマジックの番組をやっていた。
こんなマジックを自分もやってみたいと思い、
母親にせがんで本屋で一冊のマジックの本を買ってもらったのだ。
嬉しくて必死に勉強し、簡単な輪ゴムのマジックや、コインのマジックを必死に練習して親や友人に見せていた。
みんなのリアクションがうれしかった。
学級会で披露し失敗して大恥を書いたこともあった。
それでもめげずに練習しみんなを喜ばせていた。
「高校生でバーテンダー」
月日は流れ高校生になった僕は親が経営するバーでバーテンダーとしてバイトをすることになる。
1988年に公開の映画「カクテル」という映画をレンタルで借りて見たのも要因となり、
バーテンダーという職業がとてもかっこいいと思い、一気にのめりこんだ。
お客さんにマジックを見せたりもした。
「バイト時代は週13勤務」
その後、18才になった僕は
工事現場のガードマンの会社で働くことになる。
交通規制の規制員や列車の見張員という変わった仕事もしていた。
列車が行き交うなか工事している人たちに対して、列車が来たことを知らせたり、行き交う線路を列車が来ないことを確認しながら横断するのだ。命懸けだった。
その当時は人手不足もあり、連日連夜仕事をしていた。一週間に昼夜あわせて13勤務したこともあった。
そこそこな収入にはなっていたが、さすがに限界だった。
命がけにも関わらず、寝不足で集中力も続かないし、これ以上は無理だなとおもっていた。
「運命の求人紙」
そんなある日、ふとコンビニでアルバイトの求人紙を手にとった。
そこで衝撃的な求人を目にする。
新規オープンの「マジック&エンターテインメントバー」のバーテンダー募集の記事だった。
これが僕の運命を変えた瞬間だった。
バーテンダーとマジックが出来た僕は「これだ!」と思い、応募して受かったのだ。
そこでは、現在の師匠や今でもテレビや各方面で活躍するマジシャン、いろいろな芸人さんたちと出会った。
マジシャンが舞台でパフォーマンス、マジックが少しながらできた僕はカウンターでお客さんにマジックを披露したりもした。
出演しているマジシャンに教わったり、実際にお客さんにマジックを毎日見せるという経験が出来たことによって、ここではかなり勉強することができた。
師匠にはマジックの実演販売の仕事を紹介され、週末には実演販売もしていた。
「オーディションそして、、」
そして師匠にはとある有名テーマパークのオーディションを受けてみないかと誘われる。
20数名もの名だたるマジシャンの中で緊張しながら、オーディションを終えた。まだまだ新米マジシャンである。
何をしたのかもう覚えてはいない。その場では結果は出ずに解散した。
数日後、僕がいたのは、なぜかそのテーマパークの隣の駅の天井の裏だった。
列車系の仕事をしていた時に知り合った、業者さんの誘いで、ちょうど駅の配線工事の作業を手伝っていたのだ。
天井裏で作業していた僕の携帯が鳴った。
結果報告である。
「受かりました」
一瞬呆然として電話を切り、作業しているみんなに報告をした。
みんな自分のことのように喜んでくれた。
「華やかな舞台へ」
短い期間ではあったがイベントにレギュラー出演をし、多くの本当に多くの観客に喜んでもらうことができた。
喜んでもらう本当の喜びを知ることができたと思う。
ある親子に目の前でマジックをみせたときのこと。
僕はいつもやってるマジックをいつものようにみせた。
お母さんは急に泣き出して僕に感謝を伝えてくれた。
その時の彼女の気持ちは知ることはできなかったが、
環境や状況次第でどんなちっぽけなマジックでも人を感動させることができるのだと学んだ気がした。
出演期間終了後は、マジックバーの時のプロデューサーづてに軽井沢のショッピング施設にマジックシアターを立ち上げるということで参加。
終了後はその施設の経営会社(イベント会社)に就職。その会社でマジシャンとしてマジックの営業もこなしながら、先輩マジシャンのマネジメント業務、その他大小問わずイベントの運営なども行い、イベントのいろはを学んだ。
その会社の経営していたマジックバーにもレギュラー出演も行いながら、成長していった。
そんな日々を数年続けていたころ、お客さんでエンターテインメントレストランを立ち上げたいとの話があり、その当時の店長であるフレアバーテンダーさんとともに転職することになる。その当時お世話になっていた居場所を離れる形となった。
新しい店では僕は新しい店のメインマジシャン兼副店長として抜擢。
これまでの経験から舞台演出、照明、音響の演出までおこなっていた。
「ショーレストラン」
イリュージョンショーが毎日行われ、ウェイトレスはショーが始まるとダンサーに変身、バーにいたバーテンダーも突然火を吹き、フレアバーテンディングを行うという演出は好評を博した。
こうして、短期間にのべ3店舗もの立ち上げに参加し経験を積んだ。
「東日本大震災」
その後、世のマジシャンたちは東日本大震災の影響でエンターテインメント自粛モードになり仕事(営業)が激減。
しかし僕は立ち上げてたばかりのこの店に勤めていたこともあり、急に仕事がなくなることはなかった。
運が良かったのだ。
だが、しばらくすると経営方針の変更により、事業を縮小することになり、毎日パフォーマンスをすることは無くなってしまう。
実質仕事を追われる身になり退職。
マジシャンという夢のある職業にもかかわらず失業手当をもらって生活することとなる。
挫折だった。
それまで、オーディションを皮切りに階段をものすごい勢いで駆け上っていたのに、突然目の前がガケになったのだ。
営業(出張マジック)もこなしてはいたが母体を失ったことにより、生活が厳しくなるのは目に見えていた。
「出会いは突然に」
危機を感じていた僕は空いた時間を利用して、自分をプロデュースしはじめる。
自分でWEBサイトをつくったり、ブログをたちあげたり、いろいろしはじめた。
そんなある日、とある会のオフ会のカラオケ会場に参加していると、
そこにいた参加者からウェディングのプランニング会社を紹介してもらえるとのことで、お会いしてみることに、さらにその方に紹介してもらったのが、ある経営者が集う朝会だった。
とても魅力的に聞こえたその会に興味本位に出席してみることに。
とても魅力的だったのだが、そこは家からかなり離れたところにあり、朝はやくに通うのは非常に困難でした。
そんな話をすると、家にほど近い場所で同じような会を立ち上げるとのこと。
その会で知り合ったのは、その地域でかなり顔の広い経営者ばかり集まる会でした。
その方々からの紹介、さらに紹介の紹介を経て、独立を機に立ち上げた個人事業もうなぎのぼりに機動にのりました。
「幅広い活動」
各種ホテルのディナーショー、イリュージョン演出、百貨店イベント
新車発表会にて車登場演出、横浜アリーナイベント、商社のイベント、酒造メーカーディナーショー
各種イベントやパーティー、船上イベント、アイドル育成など
そのジャンルは多岐にわたり多忙を極めた。
そしてその中、単身、ハリウッドに生き、マジックの殿堂マジックキャッスルのメンバーシップを取得。
その会には3年在籍したものの最後は忙しさを理由に会をやめることになる。
今でもこの時の方々には感謝を忘れない。
「リアルゲームとの出会い」
この成長期と時をおなじくして、
先にでたオフ会では別の方にリアル脱出ゲームを紹介してもらった。
はじめて参加したのは2013年「夜の展望台からの脱出」という六本木ヒルズを舞台にした謎解きイベントだった。
結果を言えば惨敗だった。8人で参加したにもかかわらず、おそらく3歩及ばないくらいの惨敗。
でも解説をきいた僕は「惜しい!」と思っていた。あともうちょいがんばれば行けたと思えたのだ。
ハマってしまった。
もうどっぷりハマってしまった。
底なし沼のようにどっぷりである。
チケットが発売するたびにみんなに声をかけ、でる公演でる公演に参加した。
まだ今ほど公演数もすくなかったのも要因ではあった。
そんなある日、朝会の別の会からのお誘いで交流会に参加することになる。
なんと、謎解きをするとのことで、参加。たのしかった。
謎大好きなんですよ!と主催につたえると、その場にいなかった制作者を紹介してくれることになった。
「謎解きの師匠との出会い」
主催の人と制作者の方と、もう1人の参加者の4人で話す機会を設けてもらい話した。
彼の主宰の謎解きに参加させてもらったり、
もう一つの団体の幕張メッセで行われた大きなイベントにマジシャンとして出演させてもらうことになった。
その後、
僕は朝会で出会った人の紹介で謎解きゲームの作成を師匠に依頼。
謎解きに未来を感じてた僕は
そのあとも横浜の青年団体のイベントで子供を集めた宝探しの作成もお願いしたりもした。
謎の作り方なるものを僕はプロデューサー?として覚えていった形になったのだ。
「なぞのそしき立ち上げ」
師匠に謎解きのフェスイベントのキャストとして誘われ参加した時のことだ。
謎解きによく一緒にいっているメンバーは参加者として参加。
打ち上げの席でのこと。
フェス公演を見た友人の一言がまた運命を動かすことになる。
「うちらでも作れるんじゃない?作ってみようよ!」
謎解きに可能性を感じていた僕は2ヶ月後、
いつもの謎解き会のあとに正式にたちあげることを決起。
大いなるものが動きだした瞬間だった。
(ほんとに最初は中華街の周遊謎解きを作ろうとしてたのは内緒の話)
公演型をやりたいよねとなり毎日メンバーと連絡をとり、公演型の作成の打ち合わせをする。
大の大人が昼間にあつまって、会社員のメンバーの昼休みを狙って会社の側の喫茶店にいったりもした。
大変だったけどたのしかった。
やらなきゃいけない状況をつくるのは簡単だった。
まずは告知してしまおうってことで、Twitterやサイト広報物を作り、イベントの概要だけ作って告知をうった。
「リアル救出ゲーム 海の処刑場からの救出」
(※再演時のチラシです)
もう後戻りはできなくなった。
公演を作りながら参加者を集めるためTwitterで小謎をだした。
必死だった。
会場探しが一番たいへんだった。
「最初の公演はあのカラオケ店だった」
はじめての公演は何度かオフ会で登場しているカラオケボックス(広い)だった。
はじめてながらも満席で迎えることができた。
すこしは評判になり再演。
その間にもツイッター謎やWEB謎を出し、ちょっとずつだが、団体を成長させていった。
その後も
スターウォーズのオマージュ作品「ダークサイドからの救出」
サーカスというバーを使った「ピエロ」などを展開
記憶が確かならば
どこかの年の新人賞にノミネートされていたと思う。
投票してもらった人に感謝しかない。
「2016年7月」
なぞのそしきはWEB謎に不審な小謎を連続して投稿しはじめる。
「招かれざる不思議なバースデーパーティー」
通称「聖誕祭」だ。
友人50人と謎好き50人を集めてマジシャンRyoとして
パセラの大会場を舞台に自身のバースデーパーティーを企画開催。
その一イベントとして謎解きをおこなった。
チケットは3分で完売
マジックショー中に事件が起き、それを参加者に解決してもらうもの。
謎慣れてないかたの為に、ビギナーモードも用意した。
当時、まだ売れる直前の「しーば」くんを司会に起用サプライズで出演してもらった。
売れる前とはいえ、謎解き会ではすでにアイドル的存在。
出て来たときは大いに盛り上がった。
30分で終わる予定だった謎は1時間公演なみのボリュームにしてしまった。
それでも暖かく受け入れてくれた参加してくれたみんなに感謝してもしきれない。
「謎解き制作本格化」
実績を積み重ねた結果、バースデーも手伝ってもらっていた後輩マジシャンから、
紹介をうけ、現在の団体の謎解きを商業的につくりはじめる。
それまで、主宰、謎やストーリーの取りまとめ、デザイン、広報などの業務を自分でやっていたので
謎だけつくればよいのは、最初は楽だった。あくまで最初は、だ笑
この先の話はコンプラにも関わってくるので割愛したい。
また令和の時代ででも、折をみて話せたらと思う。
その後は商業も行いながら、マジシャンを続け、いまにいたる。
なんでマジシャンなのに謎制作してるかって?
多分マジシャンの思考と謎制作の思考って似てるんだと思う。
そしてなにより大きく活動でき、好きなコンテンツも自分で触れて制作できるようになった。
新しいエンターテインメントとして、マジシャンのころよりも多くのみんなを楽しませられるようになった。
僕の夢は世界に向いています。
世界中の人を笑顔にしたい。
楽しいを届けたいです。
マジックが好きになってそれを職業にして、謎が好きすぎてそれを職業にもしました。
夢を常に自分の手で叶えてきました。
でもここに書いた以外にもいろんな波乱万丈がありました。
決してずっと上り調子だった分けではありません。
でもその時の経験が今かなり役にたってます。
今はマジックもできて、好きな謎解きにも携われて
今、この何年ものあいだで一番幸福度高いと思います。
もっと上げていきますよ!
あ、あと大事なことをおもい出した。
「水没中」
詳しくは以下のリンク参照
なぞまっぷ 【ナゾガク2017】なぞのそしきの「水没中」が物理的にすごかったのでギミックを紹介!
要約すると部屋の中にガチの家を立てたのだ。
感想はこちら
廊下がパンパンになり騒然となったあの時の光景を今でも忘れない。
またいいものをつくる糧にします。
絶対これからもおもしろいもの作るよ!
新しい時代へ!!
















