Ⅰ-2 学校を問い直す : 栗原彬
の2回目。
ある人は、日本人の基礎学力レベルの高さを指摘し、この聴講の形式ゆえにこのレベルが達成されるのだと考えるかもしれない。
一方通行とされる傾斜型の教育だからこそ、効率的に知識が教師から生徒たちに伝わっていく。日本の教育指導要領はきめ細かく教科書に付随した教育資料も詳細である。その方法論に従っていれば、一定水準以上のレベルを保証された均質な教育が日本の隅々まで行き渡る。
日本と米国の理系科目の教科書を見ると、中学校や高校レベルでみれば遥かに日本の方が高度なレベルまで含まれている。それがほとんど全ての日本国民に(少なくとも前期中等教育までは)提供されているのである。
一方で、指導要領や教科書を逸脱した教育は原則的に許されていないし、特に公立学校においては、教師独自の特色を出した授業を行うことは以前にも増して難しくなっていることだろう。
前々回にも議論した、governanceの掛け声による支配と責任回避の構図である。
私が小学校6年生の頃、クラス担任の男性教師は「自衛隊」は軍隊であるかどうか、日本は「軍隊」を持つべきかどうかについて、1時間かけて議論させた。そして授業の最後には、憲法を改正し自衛隊を軍隊とし、より多くの予算をかけて強化すべきであるという持論を滔々と語った。
このような授業は現在可能であるだろうか?
現在でもこの教師のような憲法改正肯定派の内容であるのなら、もしかしたら許容されるかもしれない。今や国歌斉唱や国旗掲揚時に起立することがgovernance上求められ、義務化される時代であるのだから。
しかし、これが「憲法改正反対」、「自衛隊反対」、といった内容であったら、当時は許容されても現代では許容されないであろう。大きな社会問題となる可能性すらある。となれば、誰もそんな危ない橋は渡らない。
名著として知られる「ファインマン物理学」やS.ラングの「解析入門」などは、大学の教科書として書かれているが、前半の内容は日本では中学校や高校の授業で学ぶものだ。
しかし、名著の名著たる所以はその内容の深さであり、それを用いて学んだ者の最終的な到達点が高いことである(もちろん用いたからといって、誰もが最終的な到達点に至るわけではないのだが)。
医学においても同様である。日本の内科学教科書といえば朝倉書店から出ている「朝倉内科学」や中山書店から出ている「内科学書」が名著としての評価を得ているが、米国の「ハリソン内科学」や「セシル内科学」を開くと、残念ながらその差は歴然としている。
まず日本の教科書は読んでいて面白くない。
夜自宅で教科書を開いたら、あまりに面白く時間を忘れて読み耽ってしまった、という人がどれだけいるだろうか?しかし「ファインマン物理学」や「ハリソン内科学」では、そういったことをよく経験する。
これは、著者のより良く伝えたいという情熱と、そこから生まれた創意工夫の有無や、教科書を著すということに対する責任感の軽重、これらがまさしく迸るように読み手に伝わってくるかどうか、が一つの理由ではないか。
日本の子供たちは、中等教育終了時までは他国より高度な「知識」は持っているかもしれない。しかし知識の背景にある理論や根拠をを理解していないがゆえにその「知識」は薄っぺらなものとなり、自ら考える「思考力」は乏しく、何より「勉強嫌い」となる。
面白く工夫のない教科書と、governanceの掛け声による支配と責任回避の構図から生まれる型にはまった授業、そして傾斜型授業による自発性の抑制が、パターン学習に偏った思考力のない表層的知識のみを集積した大人を大量に生み出している。