茨城県の高校野球の名門校常総学院の木内監督が今年の夏限りで勇退するそうです。
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http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110513/bbl11051302030003-n1.htm
実は木内監督は,いったん勇退しています。2003年(平成5年)の夏の大会が始まる前に,この大会が終わったら監督を辞任することを表明していました。そして,その大会で,常総学院は,そんなに目立った選手がおらず強いとは思いませんでしたが,どんどん勝ち進み,今は北海道日本ハムファイターズにいるエースダルビッシュをようする東北高校に4対2で勝ち優勝しています。名将らしい最後でした。優勝監督インタビューで,「甲子園。こんなに子供の教育にいい場所はない」というような趣旨のことをおっしゃっていました。40年以上高校野球の指導者としてやってきたベテラン老将監督の言葉は重みがあるな,と思ったことを覚えています。
ところが,その5年後にまた監督に復帰しました。木内監督が勇退後常総学院は確か1回も甲子園に出ることができず,学校関係者から要請されて復帰したようです。
その後復帰した木内監督率いる常総学院は甲子園には出ることができたので,復帰の目的はある程度達成されましたが,甲子園では1回戦敗退が続いていました。
木内監督は,茨城県の高校野球のレベルアップにかなり貢献しています。30年近い昔は,甲子園に出れば1回戦で負けてくることが常連であった茨城県代表でありましたが,1984年(昭和59年)に,木内監督は,県立高校の取手二高を率いて夏の甲子園4回目の出場を果たしました。この時取手ニ高は,石田という本格派ピッチャーがおり,決勝まで勝ち進み,決勝で桑田と清原がいるPL学園と対戦しました。9回の裏に追いつかれ4-4の同点で延長戦に突入。しかし,延長戦で取手二校の中嶋選手の3ランホームランが出て結局8-4で取手二高が勝ちました。茨城県に初の優勝旗がもたらされました。
この年私は高校3年生でしたが,この年の11月に私の父が逝去しており,茨城県出身の父が非常に喜んでいたのを覚えています。
この年を最後に木内監督は取手二高をやめ土浦市の常総学院に移り野球部の監督になります。そして,常総学院では甲子園で夏の大会1回優勝,1回準優勝,春の選抜大会で1回優勝,1回準優勝をしています。
木内監督の采配は,「木内マジック」と呼ばれておりました。大会の流れや調子によって選手をめまぐるしく交代したり,初出場で地に足が着いていない相手に対して足とバントを絡めて揺さぶったり,さすがに経験豊富な名将というところがありました。
特に覚えているのが,取手二高がPL学園を破って優勝した1984年(昭和59年)の采配。4対3でリードして9回裏に突入しました。ところが,9回裏にいきなり先頭打者にホームランを打たれてしまい同点に追いつかれます。さらに動揺したエース石田は四球を与えてしまい一打長打がでればさよなら負けというピンチになってしまいました。ここで木内監督は,動揺している石田を一旦ライトに引っ込めて,ライトを守っていた柏葉をマウンドに送ります。PL学園は送りバントを試みますが,柏葉が2塁に送球しフォースアウト。その後木内監督は再び石田をマウンドへ。落ち着きを取り戻した石田は後続打者を抑えます。これが延長戦での追加点につながります。
ただ,木内監督の采配には失敗も多かったような気がします。木内監督は,前の試合の流れや選手の勢いで打順や選手の入れ替えをすることが多かったのですが,例えば,前の試合に逆転のきっかけとなる同点ホームランを打った選手を次の試合で4番にもってきたらまったく打てなかった。複数の投手をもっていたチームのときに,この選手なら大丈夫と思って先発投手にもっていったら初回で打ち込まれ,早期の投手交代を行ったが,その交代した選手が長期リリーフで完璧に相手打線を抑えた。ただ,初回の失点を取り戻すことができず負けてしまった。リリーフした投手を先発で投げさせればと悔やまれる試合でした。球場外の話では,試合の日の朝に激を入れて気合を入れたつもりが,選手の動揺と監督への不信を誘い,その大会は1回戦で敗れてしまったとかいうことがあったのを覚えています。5年,10年前の選手なら,監督の激を刺激にかえって闘志を燃やし試合に臨んでいたのですが,その年のチームの選手はそういう個性の持ち主は少なかったようです。木内監督は,「最近の選手はイエスマンが多い。昔は監督に反発してくるくらい元気がよかったのだが。」とかぼやいていたときがありましたが,選手の育成に悩んでいた時期もあったようです。
そして,個人的な感想ではありますが,勇退5年後の監督復帰はあまり賛成できませんでした。せっかく良い形で勇退の美を飾ったのに,何か傷をつけてしまったような気がします。復帰せざるを得なかったのは,後任の指導者を育ててこなかったことが原因のようです。木内監督は,実績を残している藤代高校の監督を常総学院の後任の監督にしましたが,木内監督が時間をかけて作ってきた(ほとんど常総学院野球部創設以来の監督で,カリスマ的です)チームカラーや空気は,木内監督の個性が反映された独特のもの。実績があるとはいえ藤代高校の監督にはあわなかったようです。
木内監督の監督人生を振り返ってみると,法律事務所の組織の指導者,専門家である弁護士として示唆を受けるところがあると思います。
1 どんなに経験豊富な専門家,指導者であっても,個々の業務の場面で失敗することがあること。
⇒失敗したからといって,自分に自信をなくさなくていい。必要以上に思いつめないこと。
⇒どこがわるかったか必ず振り返り考えをまとめておくこと。次につなげること。→木内常総学院も一時低迷期に陥りましたが,すぐに復活し優勝,準優勝という実績を残しています。
2 人の育成は,数年前の成功例がいつも通用するとは限らない。世代や年代が変れば違うこと。また,同じ世代であっても一人一人のキャラクターによって異なってくることを認識すること。
3 体力や気力が衰える前に,後任の指導者を育成し,引退に備えて準備しておくこと。
法律事務所のベテランのボス弁護士の中には,自分のイソ弁時代の成功例と苦労話を自慢げに話し,それと同じやり方で勤務弁護士や事務局スタッフの育成をしようとしている方がいますが,20年,30年前のやり方がそのまま当てはまるということはまずないと思います。世代の違いやその人の個性を知りながら育成方法を考えなければなりません。自分自身や自分が見てきた人が,そのまま目の前の人に妥当するとは限りません。
また,自分の引退後のことは早いうちから考えておくこと。引退間際によそから引っ張ってきた人にそのまま事務所を引き継がせると失敗することがあります。特にほとんどボス弁1人で築き上げてきた事務所はカリスマ的空気が漂い,どんなに優秀な人でも引き継ぐのに苦労します。
今回の勇退は,木内監督の80歳近い年齢のこともありますが,指導者の若返りという方針もあるようです。
いつまでも老兵に頼るような組織は,だめになってしまうと思うので,常総学院の若手後任指導者に頑張ってもらいたいものです。
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