G党にあらずC党なる人間のブログ

G党にあらずC党なる人間のブログ

2010年度 ガバナンス論講義専用のブログ

Amebaでブログを始めよう!

広島出身の私にとってやはり8月6日というのは人一倍特別な思いをはせる物です。
月日の流れも早いもので今年で21歳になる私。
年をとるにつれてこの件に関していろいろ考えてしまうのです。
原爆は広島だけで20万人を殺した大変恐ろしい核兵器です。

世界は言うまでもなく人殺しが悪であるということは理解しています。
あれほど様々な国と地域から平和祈念式典に参加してくれている様子を見ても事の重大さは明らか。

今年は式典にアメリカの駐日大使が参加すると聞いた。
駐日大使レベルですら今回の参加は異例だそうだ。どこかでムッとはしたものの着実に階段を上っているならと割り切った。

だが翌日になってアメリカ国内で大使の参加に否定的な意見が多々出たと聞いた。
「まるでアメリカが謝罪しているようではないか」
上の言葉は最初の内は新聞社のとんでもないタイプミスかと思った。
事実を知ったときは唖然とした。

以前からちらりと聞いた事はあったが、「大戦を終結させたのは原爆が決定打となった。我々アメリカは誇りに思う」というこの発想。核兵器を肯定し被爆者の感情を逆なでにするこの発想。
百歩譲ってそれが一部理にかなっているとしても、少なくともあんな時期に言うのは不適切だろう。
原爆を落とした当事者であり、国際的に高いポジションにいるアメリカ。様々な国が参列する中、アメリカだけにはそのような態度を取ってほしくなかった。

この様な形で戦争が終わった。もし原爆がなかったら広島・長崎に限らず日本という国が完全に崩壊していたかもしれない。ならば今の日本があるのは彼らの犠牲と引き換えに得た物と言える。だから私たちは6日や9日、15日に供養や謝罪の意をこめて祈りをささげるのだ。
彼らに言わせれば一戦争の延長線上の出来事なのかもしれないが、彼らは同時に自分たちが核兵器の使用という過ちを犯したという自覚はあるはずだ。
謝る気がなくても、仕方がなかったと考えるにしてもそれは必ずしも追悼の意思表示を示さない理由にはなりえないと思う。


この度のガバナンス論演習で私は情報社会学科の知り合いにインタビューを行った。

彼が経験した人生で最も印象的だった出来事は、中学入学直後の体育の授業で、教師に思い切り殴られたことらしい。
当時13歳だった彼は、なかなか慣れない中学校生活に少しずつ慣れてきたころで、全体的に気が緩んでいた時期だったらしい。
そんな中、しょっぱなの授業で事件は起こった。中学生というとやはりまだまだかっこつけたい時期である。
彼とその友人たちはハーフパンツをかなり低い位置で使用する、いわゆる「腰パン」
をしてしまったのだ。それを見た体育教師は異常なほど激高し、暴力を振るったそうだ。

その体育教師は長年、肉体労働系のバイトを続けていただけあって相当力のこもった一撃を生徒たちにくらわしたという。

それ以降その教師は彼らにとってしばらくの間、驚異的な存在であったという事だ。

CGMとは consumer generated media の略で、インターネットなどを活用し、消費者が内容を生成していくメディアの事を言う。

これらにはミクシイなどのSNSやブログなどがこれに当たる。

ただこれらには現段階において様々な問題点がある。今回は私が普段からしばしば利用しているミクシイを中心に話をすすめて行く。

良い点からみれば、ミクシイは実に楽しい。さまざまな趣味・考え方を持った人間が、面と向かってではないものの、同じコミュニティ内で集まることができ多くの情報までも共有することができる。その延長線上としてオフ会という実際に何人かで会うイベントも開催される事もある。このように本心から集まりたい人・集まるべくして集まった人がメディアを介することでコミュニケーションをとるというのは素晴らしい事である。

だが実際にはそれが上手くいっていない面もしばしば見うけられる。

ネットという個人が匿名性を持ちやすい環境では、やはり本来の目的から逸脱した悪さをする人間が出てくる。

例えば、SNSを一種の出会い系と捉える行きすぎた考え方を持つ者や、若い異性になりすましたサクラと呼ばれる業者が蔓延していることがある。特にサクラから来るメッセージは非常に不愉快で、個人的には普通の迷惑メールよりはるかに気分が悪い。


今、CGMの管理者に求められるのはこういった不適切な行動をとる人間の取り締まりであろう。「より多くの人を対象に」というコンセプトが残念ながら不善を招いている。明確な権限を持つ管理者や、それを実際に行うプロセスの確立が不可欠である。

またそれらに対して参加者各々が協力的な姿勢をとるためにもまずこの現状を知らなければならないだろう。