風見鶏が鳴いたと聞くと、多くの人は首をかしげると思う。そもそも鳴く構造ではないし、私自身も半信半疑だった。しかしあの日、まだ薄い朝靄の残る街角で、確かに私は聞いた。金属の擦れるような、けれどどこか生き物めいた音。まるで風見鶏が、ただ風を読むだけでは物足りないとでも言うように、自ら存在を主張してきた瞬間だった。

その音を境に、世界の見え方が少しだけ変わった。風を読むとは、ただ方向を示すことではなく、空気の流れに隠れた意志を聞き取ることかもしれない。そう思った途端、街灯が倒れるほどの強風の日でも、風見鶏だけは静かに旋回している理由が腑に落ちた。あれは風の力に押されて回っているのではなく、風の物語を拾いながら、自分に必要な速度で動いているのだと感じられた。

その日以来、私は少しだけ風に耳を澄ますようになった。仕事で迷ったときも、気持ちが沈んだときも、ビルの隙間を通る風の向きを観察してみる。すると不思議なことに、ほんのわずかな変化を見つけるだけで、人の考え方は驚くほど軽くなる。風が変われば景色が変わる。景色が変われば、行動も変わる。そんな単純なことを、風見鶏はずっと前から教えようとしていたのかもしれない。

あるとき、ふと風見鶏の影が、自分の影と重なって見えた。それはまるで、自分のなかにも小さな風見鶏がいるように感じられた瞬間だった。常に回転し続けるのではなく、必要なときだけ静かに方向を変える。無理に進もうとせず、風の力を借りながら一歩を選ぶ。そんな在り方が、自分にもできる気がした。

最近は、風見鶏を見るたびに問いかける。今、どの方向から風が来ているのか。そしてその風は、自分の背中を押すのか、それとも立ち止まれと言っているのか。答えはいつも静かで、けれど確かだ。風見鶏は喋らない。ただ回るだけ。しかしその回転には、誰よりも誠実なメッセージが込められている。

あの日、風見鶏が鳴いたと感じたのは、きっと私自身の感覚が変わり始めた合図だった。風の音を、ただの空気の振動としてではなく、自分を導くヒントとして受け取れるようになった瞬間だったのだ。今も街角の風見鶏は静かに回っている。音はしない。でも私は知っている。あれは今日も、風の言葉を翻訳し続けているのだ。