1964年。輝かしい青春時代、一年間過ごした屋根裏部屋での生活。
その頃、よく通った「一膳めし屋」。
四、五年前までは存在していましたが今はもうありません。
(十三)最終回
電話では今日は講義がないので都合がいいとのことだった。
南原さんに会おうと思い、やっと出かけてみる気になったのは、九月も半ばを過ぎた頃で二回目の校内統一模試も終わっていた。 今朝はいつもの満員電車に揺られることもなく、南原さんから手渡されていた一枚のメモを頼りに陽一は、とある郊外の駅前に降り立っていた。
ここは都心から少し離れた市街地で 駅の改札口を出たとたんかぐわしい金木犀の匂いが付近の静かな午前の日溜まりのなかに漂い、吹く風にも心地よい空気の旨味が感じられた。
いつか南原さんが話したナンテンの実の赤さがふと目に浮かび、やがて近づくその季節の到来が何となく皮肉に思えた。今度は自分がそのナンテンの実を眼の前にして決断するというのか。
しかし陽一にはもう、迷いはなかった。これまであらゆる場面で何かわだかまっていたもうひとりの自分の正体が分かったような気がしてきて、それはこの半年の間でようやくその結論を見いだそうとしていた。そして、その結論は挫折でも逃避でもなく、敗北でも退廃でもなかった。何よりも自分が目指そうとする混じりっ気のない純粋な自分自身の道への焔が胸の中で燃えていた。
その焔は秘かに眠ったままであった幼い頃に夢見た画家への憧れであり、あの時、不意に彷彿と噴き上がってきたに違いなかった。電車の中で見た少年の姿にそれはあたかも曇りガラスの向こう側が次第に明るく見えてくるように、眠りつづけていた自分の絵画への執着が熱く蘇り、東郷青児の画によって目指す道を固めたといってよかった。
巨大で煌びやかな虚栄と無関心に包まれた都会の下で、漠然と考えていた目標があまりにも形式に過ぎず、それは単なる名誉を追うだけの挑戦に似ていた。その仮面を剥ぎ取り、眠っていた自分の本質をついにその夏の終わりにあのガラス張りの外から差し込む西日のなかに確かに見たのだった。
南原さんと今日会えばはっきりと志望校の変えた理由を言うことが出来そうである。自分が温めつづけていたものが自分にとって本当に挑戦してみたい″まばゆいバッジ″だということを告白すべきであった。
メモに書かれたたばこ屋の角までやって来ると、左向かいに確かにそれは悠然としかもしっとりとした感じで建っていた。
蔦に蔽われ古びた洋館建てのその建物は凡そ学生の下宿アパートとは感じさせず奇妙な資料館を想像させるにふさわしかった。
″学生寮・雅樹苑″。その玄関に掛かっている真鍮の表札板に薄汚れて消え入りそうな文字が大きく刻み込まれ、間違いなく南原さんの居る下宿アパートである。
約束どおり時計は十時になろうとしていた。縁の老朽したその開き扉を押して中に入るといきなり広い廊下が眼の前に拡がり、静まり返った部屋が軒を並べて眠っているように感じられた。
電話で教えられた通り、玄関を入ってすぐ右にある階段を上り、二階の五号室へ行けばよかった。陽一は靴を脱ぎ、光沢のある静かな廊下の床の上に立った。
そこは、くすんではいるが何か全体に大人になりかけたくたびれた哲学の匂いとほのかに漂う青春の息吹のようなものを感じ、その広い階段にはさまざまな学生たちの上り下りする生活の渇いた匂いがしみ込んでいた。
明かりの消えたその階段を上りながら陽一はふと自分のたてるきしむ音に気づき、脳裏にあの屋根裏部屋の梯子を思い浮べた。
「おう、よく来たな」
その部屋は寄り合い部屋となっていた。洋館建ての外観の造りからまさか中がこんな古びた和室の大部屋になっているとは思いもよらず、しかもだだっ広い畳の四隅にはそれぞれが陣取った仕切りらしいカーテンがありそれが彼らのねぐららしかった。
四人は部屋の真ん中で雀卓を囲み、顔をあげた南原さんにつづいて他の三人が替わるゞわる陽一を一瞥したが無関心を装って依然と麻雀をしつづけるのだった。
「もう終わるから。ちょっと待ってね」
部屋の前で立ち尽くす陽一に向かって南原さんは申し訳なさそうに声をかけ、振り向いてはその眼鏡の奥に例の柔和な人柄の一端をしきりにのぞかせた。
部屋のなかは電熱器のうえに空っぽの鍋がそのままになり、食べ終えたインスタントラーメンの袋や丼や箸が無造作に転がり、灰皿は吸い殻の山となっている。締め切った正面の明るい窓にこの部屋に立ちこめる煙草の煙が紫色の筋となって差し込む光のなかに揺れていた。
初めて見る下宿のなかの大学生の姿は陽一にとって青白い哲人の印象を与えた。恐らく彼らは昨夜から徹夜で麻雀を打ちつづけていたに違いなく、黙々と牌を打つ四人の肩に心なしか疲労の色が見えた。もはや話すネタも無くなったのか、ただ彼らの積もっては捨てるその単調でいて小気味のある牌の音だけが異様にその部屋のすべてを支配していた。 まだしばらくはかかりそうである。陽一は手持ちぶたさに再び廊下に出て、その薄暗い突き当たりに明るい陽の洩れるテラスのような一角を発見した。
そこに出ると澄み切った青空が遠くに広がり、静かな郊外の屋根々に射す秋の陽射しがまぶしく照り、吹く風はどこからかまた金木犀の香りを運んでいた。
下を見ると枯れた蔦が古びたこの洋館建ての壁面を這うようにして伸び、その蔓が縦横に絡って洒落た建物の図柄をかもし出していたが、まさかこの中の住人が古びた畳の上で即席ラーメンを食べながら徹マンに興じていようとは誰も想像出来まいと思った。
さっきのあの青白い哲人たちを思い浮べながら陽一は告げるべき決心を反芻するかのようにその蔽っている蔦を眺めつづけていた。 「やあ、待たせてすまない」
スリッパの音が背後から響き、南原さんの声が聞こえた。
「やり始めるといつも徹夜になってね。申し訳ない」
「終わったのですか?」
「うん。まあ」
彼は眠そうに近づいてきて同じようにテラスに立ち、首をだるそうに回しながら大きく深呼吸をした。
「いゃあー、いい天気だ。気持ちいいね」
「本当ですね」
二人は並んでしばらくのあいだテラスに射し込むそのさわやかな陽射しと抜けように青いその空を仰いだ。
そして、陽一は今、切り出すべく言葉を選んでいた。
「どう、勉強の方うまくはかどってる?」
「ええ」
「この間の模試、どうでしたか?」
「相変わらず数学がダメなようです」
「そう」
いつか南原さんが言っていた″数学は閃きが肝心なんだ″という言葉を懐かしく思い起しながら陽一はようやく決心をして、
「来年は美大を受けます」
と、つぶやくように告白した。
なぜかこの時、先程まで耳の遠くで残っていたあの青白い哲人たちの黙々と打つ牌の音がピタリと止んで、自分が今、思い切りよく打ち放った牌の音が大きく響きわたったような気がした。
(完)
(十二)
あのときは青葉の薫っていた頃だったから、あれからもう三ヵ月は過ぎていた。
ガラス張りの席から見る外の景色に色あせた夏の終わりが漂い、外行く人々の表情や歩き方のなかに新たな季節の到来が感じられた。 外にはもう数日前までのうだるような熱射はなく、八月もあと二日で過ぎ往こうとしていた。
陽一はいつもの席に座り、冷たいコーヒーを注文してから、しばらくは外を眺めやがて店内の例の画を見つづけた。
優と西島に最初にこの喫茶店で出会ってから、まさかここが彼にとって行きびたりの場所になろうとは思いもしなかった。
二度目にこの店に訪れたのは社長宅での夕食招待を受けたあの日からしばらくたった頃で、外は梅雨も明けて本格的に夏の到来を告げていた。
音田製版所の社長の言葉があれ以来、彼の胸のどこかに突き刺さった棘のようにいつまでも離れず、それは果たして自分の目指している漠然とした目標を見抜かれた狼狽と自分自身が本当に求めようとしているものへのほのかな暗示が含まれているようで、三ヵ月もたった今なおその幻惑に対する結論を出せないままでいた。
自然とこの喫茶店に足が向いたのも、あの梅雨明けのときから予備校の帰りに毎日のように通うようになったのも恐らくはこの画のせいに違いなく、その東郷青児の一枚の例の″蒼い幻想″を眺めていると不思議にその気になる棘がやがて消えて無くなるような安らぎを覚えるのだった。
毎週行なわれる実力テストは依然、数学の点数が伸びず七月に実施された校内統一模試の結果も芳しくなく、この分だと到底志望する大学は無理のような気がしていた。それよりも正直に自分の実力を見つめ直し、社長の言った″どういった方面へ進むのか″という問題の解決の方が先なのではないかと思うようになってきていた。
店内は相変わらず客は少なくがらんとしていて静けさだけが漂っており、時々ひと組みのアベックだけの会話がほとんどガラ空きのその洗練されたテーブルの艶のある表面を縫って店の隅にある観葉植物の細かな葉の陰に小さくこだました。
もともとこの店にはBGMは入っておらず、東郷青児のこの″神秘的な女性″の画といい、一目でそれと分かる格調のある深みを帯びた椅子とテープルといい、それはまさに芸術の逸品を見るようで、最初に来たときから陽一は気に入っていた。
音楽は流れず肉声だけが基調となっているこの店でそのひと組みのアベックが沈黙すればたちまちこの店の全体はノー・トーンで蔽われ再び静寂の中に包み込まれるのだった。この時、たった一本のピンが床に落ちてもその音は陽一の耳に聞えたに違いなかった。
三ヵ月近くも同じ場所に座って、同じ画を眺めているとまるでその画が出来事を振り返る日記のような存在になり、そのページは何度も繰り返して読めてきそうな気がした。そして眺めつづけているとその画像のなかに常に浮かび上がってきては思い出す三人の女性の像があった。
蒼みがかった色調で構成されたその″神秘的な女性″の輪郭に、その細くて長いえりあしは最初の日の朝、満員電車のなかで出逢ったあの0Lの香りを想い出させ、その一点を見つづける潤んだ瞳にムーラン・ルージュの赤いドレスの女が蘇り、その肩から胸に流れるしなやかな曲線と滲み出ている高貴で品のある色気にあの梯子段の下でたたずんでいた奥さんを感じさせた。
飽きずに眺めていると限りなく空想の世界が拡がりその空想が消え入りそうになると画のなかの形から色彩が消え、再び現実のあの気になる棘が胸のどこからか頭をもたげてくるのだった。
そのアベックの話し声が途切れ途切れに聞える。しかし、何を話しているのか内容がよく分からない。ただ、ひとりは過ぎゆく夏の想い出かしきりに避暑地での出来事を語っているようであり、もうひとりはテレビ番組の内容を声高に話題にしていた。
ふたりとも学生風で男性の方がどうやらその長い夏休みを終えて、再びこの都会に戻ってきた様子が伺われた。恋人同志なのか久しぶりに逢って積もる話に夢中で、瞬間の沈黙のときでさえ二人は陽一にもその壁に飾られた八十号の画に対しても完全に無関心であった。
夏が終わっていく。
浪人の身ではとうてい避暑地で過ごす余裕などあるはずもなく、灼熱のなかせいぜい予備校の帰りにビニール袋に入ったかち割り氷を買って帰り、冷蔵庫も扇風機もない屋根裏部屋で汗を流しながらすするのが精一杯で、流行っているテレビ番組といってもテレビそのものがなくラジオだけの三畳の間の生活では今どんな番組をやっているのか分かるはずもなくただ自分が何となく次元の違う生活をしていることに気づくのみである。
でも確実に前半は終わろうとしており、このままの状態ではこの三ヵ月の間この店に足を運んだ意味が結局単なる逃避とか、中途での挫折で片づけてしまわれそうでそれが陽一にとっては何となく口惜しかった。
ガラス越しに見る外に間もなく夏の終わりの黄昏が迫り、駅前本通りを行く人々の群れがそろそろ増え始めていた。
白の半袖のシャツにネクタイ姿のサラリーマンの姿を見ていると五月に出会ったときの西島を思い出し、″画を描く暇なんてないよ″と言っていた言葉が浮かび、大人の群れに混じって歩く黄色い帽子をかぶった学童の姿を見ると、それはなぜか鮮烈にいつか予備校の帰り、電車の中で夢中で画を描いていた少年の姿があぶり出されてくるように蘇った。 話しつづけるその次元の違うアベックの会話が再び陽一の耳から遠ざかっていき長い時間をかけて次第に自分の本心に辿り着くかのような確かな手応えがうごめきつつあった。 その八十号キャンバスの画像に再び形が呼び戻り、形に色彩が塗られようとしていた。 折しもその画の飾られている壁にガラス張りを通して外から淡くて強烈な西日が差し込み、その光は″神秘的な女性″の画の上をまぶしく照らし出した。それはまるで屋根裏部屋で最初の日、彼が経験したあの強烈なスポットライトだった。
その画の表面は落ちゆく夏の夕陽に反射してその″蒼い幻想″の形と色彩を惑わせ、ただ、まばゆいばかりの輝きでギラギラと光りつづけるのだった。
そして、燃えるような閃きが画像の中に浮かびあがった瞬間、それは自分自身がたった今、″描きたい″と決心した形になり、色彩になった。