えーっと何が問題かというとこんなにユーチューブで好き放題に文句が言える世の中になって何というかカオスの渦に巻き込まれるというかほんならわしもわしもと不満をぶつける掲示板みたいになってそれだけならいいが名前を上げ個人攻撃も苛烈を極め罵りあってその姿を写し出しあたかも英雄のようにのさばり続ける輩が横行し動画産業の繁栄というかまさに世の終末絵巻を見るような時代を迎えているのを初めて知るに至った。
火付けは「菅野完」。四十九歳。天理市生まれで大阪明星高校を卒業後、アメリカの名もない短大を出て帰国後著述家、評論家と称して今ユーチューブで毎朝「時評ライブを」二時間にわたって発信している。そして私もこの一週間その虜というか麻薬をやるように陥ってしまったのである。とにかく落語を聴くように魅せられてしまう。なぜ見入ってしまうのかという最大の理由はとにかくえーっと関西人独特のえげつなさと暴言とケンカを売っているようなエネルギーに引き込まれるのだ。
えーっと何度も言うようだが息子と同じくらいの年恰好で四十九歳。学歴も大したことがない、しかも品がよろしくなく、威張りつくしたようなものいいだけど彼はいろんなことを識っていてしかもそれがえーっと的をついているというかウソ張ったりではないことが感じられる。それがはめ込まれてしまう要因のひとつなのである。
ユーチューブの威力というものの恐ろしさを初めて感じるとともにこういったえーっとカリスマ的な若者がこれからどんどんと現われてくるのかと思うと末恐ろしさを感じざるを得ない。野放図なネット社会の弊害がこれから先、どんな混乱を引き起こしてくるのか恐い未来を同時に想像してしまう。齢をとったせいかこんなえーっと明るい未来より破滅する未来を考えてしまう今日この頃なのである。
田中小実昌著「アメン父」を再度読む。宗教は「こころ」の問題ではない。従ってキリスト教は宗教と捉えてはいけないという一貫した論旨が「アメン父」に綴られている。
分かったような分からないような表現である。そして「アメン父」が生涯貫いたのは十字架のない教会で伝導したことであった。
宗教として捉えているからこそ我々は常に祈り敬虔なクリスチャンとしての生活に努めようとするのだが「アメン父」に言わせれば本質的なキリストはそこには存在しないということになる。常に「アメン」、何が起ころうとただ「アメン」といわば内在しているキリストに対して自分の「アイデンティティ」を確認することが唯一神との出会いだと説く。十字架はいらない、偶像を拝することは信仰心のいわば偽善で重要なことは内に宿った聖霊こそが神との出会いであり、それに対して常に「アメン」なのである。
まことに禅問答のような哲学であり「アメン父」が何か輝ける救いの光のように思えるが実際仙人でなければ実行していける教理のように感じてしまう。しかし「アメン父」は何か大切な信仰の真髄というものを言っているような気がする。聖書を読んでも頭で理解するのか、心で読み取るのか、我々は常にそんなことばかりを図ってそれを信仰心のバロメーターにしているきらいがある。しかしいずれも「アメン父」に言わせればキリスト教は「宗教ではない」「宗教は心の問題ではない」とするのである。そして十字架は拝むものではないとなるのであって必要なのは「聖霊」であり、その宿った聖霊に対して常に「アメン」なのである。
私の人生を振り返り果たしてこの「アメン父」はいかに生かされてきたか。半分理解できたような気もするがほとんどこれはひとつの信仰形態としてとらえるに過ぎなかったが今回読み終えて何か肩の荷が下りたような気がしないわけでもない。つまり宗教は「こころ」の問題として捉えるものでないことが別次元での生き方を啓示されたような気持ちになったことが言えそうである。