北海道苫前・三毛別羆事件(大正4年12月)・その7 | 雑感

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 北海道苫前・三毛別羆事件
(子熊の可愛さは異常。成獣も可愛いが、強大さと、時に残虐さも兼ね備えている)

 

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知床でインスタ映えでクマに近づき写真を撮る人がいるらしいがやめたほうがいいと思う。

 

日本の星野道夫氏、ロシアのヴィタリー・ニコラエンコ氏、アメリカのティモシー・トレッドウェル氏など、ヒグマの写真家・研究者・保護活動家として署名だった人々は全員が---トレッドウェル氏はむやみにクマに近づく非常識な人間として悪名のほうも高かったようだが---撮影目的でヒグマに接近する中で、ヒグマに襲われ殺害されている。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

 

星野氏は1996年8月、カムチャッカ・クリル湖畔でヒグマ撮影のため設営したテントで襲われ、森に引きずられていき食害され、トレッドウェル氏は2003年10月、アラスカのカトマイ国立公園でその彼女とともに完食された。

 

ニコラエンコ氏は2003年12月、カムチャッカの自身の調査ポイントの一つで、歩いている雄のヒグマを撮影中、それを嫌ったヒグマが2度ほど氏に対して警告の突進を試みるも、それにめげずにそのヒグマを追跡し撮影を続けていたところ、ついに怒ったヒグマに殺害された。食害はなかったとのこと。

 

知床のインスタ映えの場合も、甘い認識でヒグマに近づき、襲われれば死か大怪我、クマも「問題熊」とみなされ駆除されるという気の毒な運命が待っている。

 

襲われるまではいかないとしても、人馴れしたクマが平気で人に近づくようになり、現地の人を危険に晒し、「駆除やむなし」となるのは、人クマ双方にとって不幸かと。

 

「どうせ大丈夫」という甘い認識が惨劇を招いたという話が、木村盛武氏の、北千島・幌筵島(ぱらむしるとう)での漁業実習時代の手記に載っていた。

 

一部を引用してみると、(以下、赤字部分。事件発生は、1938年<昭和13年>8月13日、ちょうどお盆の初日だったという。)

 

私がその場に踏み込むと、アシが一面に踏み倒され、得体の知れないものがはずれに横たわっていた。それは見るも無残に変わり果てた人間で、土にまみれ、どす茶色と化した肌の色は例えようのないほど不気味なものだった。

被害現場は、17平方メートルほど円形状にアシがなぎ倒され、小柴とアシに衣類が絡みつき、一目でヒグマが人間を振り回した跡であることが分かった。

遺体はほぼ全身が素っ裸で、ずたずたに引き裂かれ、わずかに漁夫特有の長靴が左右に残るだけ。
頭髪はすっかり剥ぎ取られ、頭蓋骨が割られて脳みそが流れ、右目はえぐれて無くなり、左目は抜け落ちて頬骨に絡みつき、耳、鼻、唇、頬肉が無く、胸骨が露出していた。腹部に内臓は無く、肛門付近に大きな穴があき、不思議なことに一滴の血液も見られなかった。
(※ 木村氏によると、吸引したものとみられる、とのこと)

降って湧いたような凄惨な光景に、二人は呆然とするばかり、ヒグマが目と鼻の先にいるとは露知らず、こわごわ死体に触ってみた。もちろん、被害時刻を知るためだった。

異様な臭気が鼻をつき、死体にはまだ温もりがあった。「これは殺されて間もない」と思った途端、先刻の、「2、30分前に二人が出発した」という言葉がグサッと胸に刺さった。

とんだところに来てしまった、と後悔してみたものの後の祭りだった。
いきなり逃げ出してはかえって危ないと立ちすくんでいると、いまにも背後から襲われそうな予感がして震えが止まらない。猛者でならした高見君(柔道2段)もさすがに顔面蒼白だった。

第六感といおうか、どうもヒグマが近くに潜んでいるような胸騒ぎがする。瞬間、何ともいえない熱気と異様な動物臭を感じた。ほとんど同時に、風は全くなかったにもかかわらず、30メートルほど前方のアシ原が大きくざわめいた。

「クマだ逃げろ!」高見君が絶叫した。二人は夢中で丘陵を転げながら突っ走った。
どのようにして、どれくらい走ったものか、我に返ったとき、百人ほどの漁夫たちが下から発砲したり、石油缶を叩きながらやってくるのが見えた。先に逃げ帰った帳場さんの知らせで、救援隊の出動となっていたのだ。「地獄に仏」とは、まさにこのことをいうのだろう。同時遭難の恐れありとみられていた我々二人の生存を一行は喜び迎えてくれたが、我々はその場に座り込んでしまった。

 

ヒグマの肢跡を多数目撃しながら、「こんな肢跡、三日も前のものだ。びくびくするな」と、甘い認識からヒグマの生息地奥深くに進入した、これが27歳の青年の(言葉は悪いが)末路だった。

 

クマにはむやみに近寄らず、クマ牧場かベアマウンテンで見るのがいいと思う。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

 

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三毛別の記事もこのあたりで一区切りとさせていただきます。

 

ウィキペディアではまだ事件の分析や教訓その他もろもろのことが書かれているので、そういったことについてはウィキで確認してみていただければと。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%9B%E5%88%A5%E7%BE%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

三毛別羆事件ウィキペディア

 

大惨事を引き起こしたクマとはいえ、皮も骨も、それが齧りついたという湯たんぽの石も、何もかもが失われてしまっているのは惜しい気がした。

 

長さ3.6mもあったというその皮は芝居の興行主に売り渡されて行方不明(これは、その皮が留萌その他の地で上演された遺族救済のための芝居で用いられたという事実からの、木村盛武氏による推定)。

 

木村氏はこの皮について、

 

「丈夫で大きなものだけに、見失うなどとは考えられず、火災で焼失でもせぬ限り、手から手を経、どこかに大切に保管されているか、この様ないきさつの品とは知られぬまま、梱包され、物置にでもしまい込んであるのでは、と思われてならない」

 

として、著書の中で情報提供を呼び掛けている。

 

異常に大きかったという頭骨は、当初、古丹別在住の上牧久太郎氏の所有となり、その後、1931年(昭和6年)に、上牧氏から知人の某氏に譲り渡された。(某氏は当時の国鉄旭川保線区の職員であり、測量担当主任として古丹別に出張・滞在し、上牧氏とじっこんの間柄になった。この人物が昭和6年の秋に離任するにあたって、上牧氏は件の頭骨を寄贈した。)

 

某氏の所在については、古い話でもあり、木村氏には調査ができなかったという。

 

上牧氏の子息(元旭川営林局人事課長)はこのクマの犬歯一本を記念に持っていたが、仕事で函館に在任中、昭和9年の函館大火で焼失した。

 

欠けていた犬歯は、クマが12月13日夕刻に数馬石太郎の家に押し入り、妻アサノが使用していた石湯たんぽを齧った際に欠けたものだった。

 

この皮や頭骨については、今後いつか、マスコミの取材力によってその行方が突き止められることを期待してしまう。