多摩保母マンホール死体遺棄事件(平成9年1月) | 雑感

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多摩保母マンホール死体遺棄事件

(赤ピンの先がマンホール。ピンクは、被害女性の当時の自宅の位置)

 

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平成9年(1997年)1月14日に、東京都多摩市貝取1丁目にある汚水用のマンホールから、前年2月に行方不明になっていた保母のYさん(当時39)の遺体が発見された事件。

 

殺人事件として捜査され、疑わしい人物がいたものの、公判維持に足る証拠は挙がらず未解決のままとなっている。(同人物については、この記事中では多くは触れていません。)

 

以下、「八戸女子中学生殺人事件」の頁で紹介した未解決事件本から、事実関係の部分を一部そのまま引用させていただきます。(部分は当方による補足)

 

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「平成9(1997)年1月14日、午後8時過ぎに一本の電話が多摩市役所にかかってきた。市内のマンホールから汚水が溢れ出しているという。早速、市役所から連絡を受けた下水道工事業者が多摩市貝取1丁目の現場に向かい、作業にとりかかった。」

 

「(下水道工事業者は)汚水用のマンホールなので臭いは覚悟していたが、蓋を開けた途端、強烈な異臭が鋭く鼻を突いた。棒状のものを中に入れると、汚水の中に異物がある。かなり大きく、マネキンのように見えたので、念のために警察に連絡を取った。その時はまだ業者は死体が遺棄されたものとは思わなかったという。」

 

「110番通報を受けた警視庁多摩中央署は、捜査員を派遣してマンホール内を調査し、女性の遺体を発見した。マンホールは直径60cm、(深さ3m)、底の部分でも1.2mほどの幅しかなく、遺体は腰かけるような形で置かれていた。」

 

多摩保母マンホール死体遺棄事件

 

「(遺体は)頭部と鼻など数か所の骨は折れていて、腐乱が激しかった。身長150~155cm、年齢20~40歳代、短い髪形で、ワンピースにセーターを着ており、靴は見当たらなかった。」

 

「司法解剖の結果、頭部に傷跡が見られたが、死体が遺棄されてからかなり月日が経っていたので死因を特定することはできなかった。しかし、歯の治療痕から遺体が前年2月から行方不明になっていた保母のYさん(当時39)であることが判明。殺人事件として署内に特別捜査本部を設置した。」

 

「マンホールには雨水用と汚水用があり、汚水用は溝がわずか25cmしかない。マンホールから汚水が溢れ出したのは、腐乱した遺体の一部が剥げ落ちて溝の穴を塞いだためだった。」

 

「Yさんが遺体で見つかったマンホールは、多摩市の京王永山駅から歩いて15分ほどの新興住宅地にあった。彼女の住んでいたマンションからも、200mくらいしか離れていなかった。」

 

「マンホールがあった現場の道路は(隣に)スーパーがあるので、昼間は比較的人も良く通るようだ。しかし、わき道なので夜間は真っ暗に近く、人もほとんど通らないという。」

 

多摩保母マンホール死体遺棄事件

多摩保母マンホール死体遺棄事件

多摩保母マンホール死体遺棄事件

(1枚目は赤ピンの先がマンホール。で囲んだ場所が当時の自宅の位置。マンホールの位置は、スーパーの出入り口にあたっている)

 

「Yさんの行方は、遺体が発見される前年の平成8(1996)年2月27日以降、まったくわからなくなっていた。その日、都内北区(西が丘)の保育園に勤めていたYさんは、午後5時半に都営三田線本蓮沼駅で同僚と別れ、午後6時50分に多摩市内のスーパーに立ち寄って買い物をしている。自宅の冷蔵庫にはそのとき買ったと思われるイチゴや納豆などの食料品が手付かずのまま残されていた。」

 

「最後に彼女を目撃したのは新聞の集金人で、時間は(平成8年2月27日の)午後9時頃。その後、誰かに呼び出されたのか、外出した可能性が高い。遺体で発見された時の服装と、同僚と別れた時の服装とは違っていた。」

 

「翌日、保育園を無断欠勤。自宅にも連絡がつかないので、不審に思った同僚たちがすぐに青森市に住む父親に電話したが、まったく心当たりがないという。翌日、父親が上京し、その次の日には警察に捜索願が出された。しかし、家出人扱いのために具体的な捜査が行われることはなかった。その後、父親はYさんのマンションに2か月半ほど滞在して、娘の行方を追った。」

 

 1996年はうるう年で「2月29日」があり、2月27日の夜9時半ごろに新聞の集金人による最後の目撃情報、2月28日に保育園を無断欠勤、翌29日に父親が上京、翌3月1日に捜索願を提出という流れ。

「父親がYさんのマンションに滞在中、4月6日までの間に、無言電話が計6回あった」という情報がある。

保育園の同僚や友人たち20人ほどが、ポスターを作るなどして捜索に協力したが、行方はつかめなかった。)

 

多摩保母マンホール死体遺棄事件

(当時のYさんの自宅方面を望む)

 

「Yさんは青森県出身。地元の短期大学保育科を卒業して、最初は多摩市内の保育園に就職した(昭和52年=1977年)。当時は保母が不足していて、保育園の協会が全国の短大や専門学校などに保母志願者を募っていた。」

 

「最初の1年間は保育園の規定で、彼女は保育園の3階にある寮に入っている。(中略)その後、Yさんはいったん調布にアパートを借りている。しかし、保育園への通勤が不便だったため、彼女が亡くなったときに住んでいた京王線の京王永山駅近くのマンションに移っている。」

 

「平成3(1991)年3月には14年間勤務していた多摩市の保育園を『結婚』を理由に辞めたが、翌4月からは北区(西が丘)の保育園に勤め始めた。京王永山駅から北区(西が丘)の保育園に通うには片道だけでも1時間以上かかるが、新たに引越しをするということはしなかった。」

 

多摩保母マンホール死体遺棄事件

 「Yさんのマンション(多摩)」→「京王永山駅(多摩)」→「本蓮沼駅(板橋)」→「保育園(北区西が丘)」通勤時間は、片道1時間半以上かかったと思われる。)

 

「Yさんの仕事ぶりは至って真面目だったようだ。無遅刻、無欠勤で、園児たちにも慕われていたという。行方不明になった年の前年に初めて年長組を担当、半月後には卒園式が控えており、自宅には友人から借りた袴が残されていた。また青森の両親が病気の時は帰省して付きっきりで看病したり、実家に仕送りしたりという親思いの一面もあった。」

 

「一方、どこか派手な印象もあり、子供の前でもタバコを吸っているのを見かけたという人もいる。『内向的で、自分のことをあまり口にしない、はっきりしない女性』という声も聞く。しかし、一人の人間には様々な側面があり、良いところも悪いところもあるのが普通である。」

 

「Yさんは結婚願望が強く、この問題ではかなり悩んでいたらしい。実家の青森や地元の友人の紹介などで度々縁談の話があったが、うまくいかなかったそうだ。また保育という仕事も日々新しくなり、それに追いついていくのも大変だったようである。そのせいもあってか、一時はストレスで顔面神経痛になったことがあったという。」

 

「付き合っていた男性も一人だけではなかった。遺体が発見されて事件が明るみになる以前、すなわち失踪当時から何人かの男性が浮上していた。Yさんと付き合いがあったことがわかっている男性だけでも、市役所に勤める公務員、同僚保母の夫、都内に住む自営業者の名前が挙がっている。さらに北区の保育園の保父と親密だったという情報もあった。」

 

「Yさんの行方が分からなくなった時、両親は遠く青森にいた。そこでマンションの管理人の許可を得て、最初に彼女の部屋に入ったのは保育園の同僚だった。部屋の中には誰かと争ったような跡はなく、また物色された様子も見られなかったらしい。しかし、同時にいくつかの肝心なものがなくなっていることも判明した。」

 

「まずYさんがいつも持ち歩いていた巾着がどこにも見当たらなかった。彼女はその中に、財布や日記帳、貯金通帳など、大事なものを入れていたという。貯金通帳には750万円ほどが預金されていたが、引き出された形跡はない。」

 

「(なくなっていた)日記は彼女が失踪した平成3年のものだったが、父親が部屋を整理しているうちに、前年の平成2年の日記もなくなっていたことがわかった。その他、給与明細のようなものも見当たらなかったが、何がなくなったかは本人しかわからないことである。」

 

 レポートには上のように、「なくなっていた日記は彼女が『失踪』した平成3年のものと、その前年の平成2年のものだった」とあるが、Yさんが「失踪」したのは「平成8年」なので、先のレポートの記述は、「失踪」か「平成3年」のどちらかを書き間違えたものではないかと。

ちなみに「平成3年」はYさんの失踪年ではないが、Yさんはその年<平成3年>の3月に、上京以来14年間勤務してきた多摩市の保育園を「結婚」を理由に退職し、しかし結婚はせず、翌4月には北区の保育園に勤め始めている。

この事件の紹介をしている他の方々のサイトを見ると、なくなっていた日記は「平成2年」「平成3年」のものとしているものばかりなので、おそらく、そちらが正しいのかなと。)

 

「Yさんはこまめな性格で、その日に誰にあって何をしたかということを事細かく記していたという。当然、当時付き合っていた相手の名前も載っていたに違いない。日記には自分の気持ちや相手との親密さの度合いなどについても書かれていたはずである。被害者と犯人だけが知り得た内容がそこに書かれていたとしたら、やはり犯人は一番躍起になって探し出そうとするだろう。」

 

「彼女は失踪する前に長い髪をバッサリと切っている。長年やりたいと思っていた年長組を担当し、その卒園式を区切りに青森に帰郷するかもしれないと、友人に漏らしていたという話もある。」

 

「Yさんの遺体はマンホールの中に遺棄されていたが、誰もが簡単にこの蓋を開けられるわけではない。蓋の直径は約60cm、重量は約40kgほどあり、特殊な工具を使わないと開けることは難しい。」

 

「マンホールは3年ごとに点検する決まりになっているのだ。(中略)特殊な工具もなく、一度も(マンホールの)蓋を開けたことのない者にとって、蓋の開閉はかなり大変な作業である。では、絶対に無理かというとそうではない。事件後、捜査本部は一般の工具を使って蓋を開閉できるかどうかをテストしている。そして出た結論は、特殊な工具がなくても開けられるというものだった。」

 

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以下、田宮さんによる見立ての部分を引用

 

元警視庁捜査第一課長・田宮榮一の分析と推理

 

「捜査第一課では、被害の発生が認知された事件(発生もの)のほか、犯罪の被害者になっている疑いのある所在不明者についても捜査している。『内偵もの』とか『掘り起こしもの』とか言われる事件捜査だ。

その結果、容疑者が浮上し、取り調べまで行い、捜査員の心証としては『限りなくクロに近い』と思っても、自供がなく、確たる証拠がないために逮捕に踏み切れないケースがある。そういう人物が、一般の市民生活の中で泳ぎ回っているということだ

本事件の被害者は(中略)交友関係のあった男性も数多くいたようだが、なかでもK氏についてだけはアリバイが曖昧で、疑惑が解消されていないとメディアは報じている。(後略)」