ヒンターカイフェック殺人事件・その13(補足情報3) | 雑感

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ヒンターカイフェック殺人事件

 

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 容疑者

 

容疑者としては、金目当て、怨恨の両面から、被害者たちと面識のあるなしにかかわらず、様々な人物が捜査線上に上がった。

 

しかし、いずれもアリバイの確認や証拠不十分などにより、逮捕には至らなかった。

 

「ある人が、犯行をほのめかすようなことを言っていた」

「ある人が死の床で、身内による犯行であることを告白した」

 

等々の情報も寄せられたが、それらが実を結ぶことはなかった。

 

血液・唾液・毛髪・皮膚片などからのDNA型の解析技術があり、指紋や掌紋・足跡についても現在のような採取技術があり、

建物や道路のいたるところに防犯カメラやドライブレコーダーの目が光っていさえすれば解決できたであろう事件ではあったが(しかし、世田谷や湯河原の事件のこともあるので、そうとばかりも言えないだろうか・・・)、

100年前に、そんなものがあろうはずもなかった。

 

自供が得られなければお手上げの状況の中で、1950年代の中ごろに捜査は事実上終了し、事件は迷宮入りした。

 

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多くの容疑者の中から、当ブログの記事で登場した人物について触れてみると、

 

ビヒラー(兄弟) → 第三者によって犯行時間帯におけるアリバイが証明された

ターラー(兄弟) → 証拠不十分(家族以外のアリバイ証明はなかった)

シュリッテンバウアー → 証拠不十分(アリバイについては後述)

 

いずれも、聴取のための身柄拘束はされたが、逮捕には至らなかった。

 

ビヒラー兄弟については、兄アントンとその10歳年下の弟カールで、男ばかり5人兄弟のうちの2人だった。

 

兄アントンは、事件の前年までヒンターカイフェックでメイドをしていたクレスツェンツ・リーガーに夜這いをかけていた男で、クレスツェンツはこのアントン・ビヒラーについて、

 

「彼は乱暴な男で、私のことでグルーバー家の人々から邪魔だてされたと思い、『グルーバーの奴らはけしからん』『ヒンターカイフェックの奴らは全員死に値する』『クレスツェンツを殺してやりたい』などと言っていた。彼の弟のカールも、1919年にコッペンバッハで馬具を盗んだ過去がある」

 

といったことを、事件直後の1922年4月に行われた聴取で、早くも警察に証言している。(コッペンバッハは、ヒンターカイフェックの南東約4kmの位置にある小集落)

 

兄アントンについては、捜査の過程で、禁猟区で密猟をしていた事実などが発覚はしたが、ヒンターカイフェック事件については、第三者による確かなアリバイが証明された。

 

弟カールのほうも、問題の日時には居酒屋で飲んでいたというアリバイが証明されたが、このカールが警察の聴取を受けた際(1922年5月)に、

 

「彼らも盗癖がある。私は彼らが怪しいと思う」

 

としてその名を挙げたのが、ターラー家の長男と次男(ヨーゼフとアンドレアス)だった。

 

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ターラー家については、その住所がヒンターカイフェックから近かったこと(直線で1kmほど)、

 

また当家の男子たちについて、一番下は事件当時3歳だったが、その他の兄弟たちの素行が揃いも揃って悪く(事件当時、男子5人、女子4人)、

 

このブログでも取り上げたヨーゼフ(長男、事件当時25)とアンドレアス(次男、同23)の2兄弟のみならず、その下のローレンツ(同18)とアダム(同15)も過去にコッペンバッハで馬具を盗もうとして逮捕収監されたことがあり、

疑わしい兄弟たちであるとして、捜査の最初期から捜査線上に上がっていた。

(先にクレスツェンツ・リーガーが『カール・ビヒラーは1919年にコッペンバッハで馬具を盗んだ』と警察に証言していたが、これは彼女の勘違いで、実際は、この窃盗事件で逮捕収監されたのはローレンツとアダムのターラー兄弟だった。)

 

ヒンターカイフェック事件後のターラー家の金回りについても、妙な噂が立っていた。

 

ターラー家には4人の娘がおり、長女のバルバラは1922年の5月(つまり事件直後)にヴァイトホーフェンのアンドレアス・カスパーという青年と結婚したのだが、

 

この新婚夫婦のための新居の建築は事件(1922年3月31日)の前から始まっており、建築資金はターラー家とカスパー家の両家長が出し合っていたが、途中で資金不足に陥り、建築がストップしてしまった。

 

ターラー家の家長は融資を求めてヴァイトホーフェンの信用組合を訪れたが、同組合はターラー家長に対して、保証人を立てることを要求した。

 

ところが、なぜかヒンターカイフェックの事件後には、そういった融資や保証人も不要になり、建築は再開されて無事に落成し、「大工たちへの支払いも、(紙幣ではなく)金貨でなされた」というのだった。

 

一方のカスパー家の家長についても、

 

「あの事件の後、彼は小麦粉100kgや娘の嫁入り道具一式を購入するにあたって、(紙幣ではなく)金貨で支払ったそうだ」

 

という噂が流れ、その息子のアンドレアス・カスパー(つまりバルバラの夫)についても、

 

「彼は事件の前に、『大金が手に入るところがあれば、躊躇せず奪いに行くのだが』などと言っていた」

 

という噂が流れ、どこまで事実かは不明ながら、こうした噂をもとに、

 

「ターラー家とカスパー家の両家長が共謀して、ヒンターカイフェックで強盗殺人を働いた」

 

という憶測が語られ、警察にも証言され、調書の形で残された。

 

カスパー家の家長とその息子のアンドレアスについては、事件後の1922年10月に何かのことで口論となり、親子で鉄砲を打ち合って警察沙汰となり(両者命に別状なし)、

 

この後で息子のアンドレアスが父親に対して「ヒンターカイフェック事件のことで警察に通報してやる」と脅迫した・・・という訳のわからない話が伝わっており、

 

こういったことからも、ターラーとカスパーの両家は、同時代の人々から疑惑の目で見られていた。

 

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ターラーの2兄弟(このブログでも取り上げたヨーゼフとアンドレアス)に関しては、次のようなエピソードもあった。

 

事件前年までヒンターカイフェックでメイドをしていたクレスツェンツ・リーガーによると、彼女が1923年の2月~5月にかけて、コッペンバッハでメイドとして働いていた時のこと、

 

同じ奉公先で働いていたある使用人から、

 

「ヒンターカイフェックの事件について、どう思うか?」

 

と問われた。クレスツェンツが、

 

「事件当時にはあそこで働いていなかったのでよくわからない」

 

と答えると、使用人は、

 

「誰が犯人だと思うか? ターラー兄弟がやったと思うか?」

 

と再び問うたので、クレスツェンツは、

 

「あの兄弟がやったのを見たわけではないが、怪しいとは思う」

 

と答えた。

 

すると使用人はいきなり「俺はターラーの親戚の者だ」と身を明かし、

 

「口に気をつけろ。ターラー兄弟が怪しいなどと言いふらしていると、そのうち彼らに殺されるぞ。彼らはどこかに身を潜めていて、夜にいきなりお前を殺しにくるぞ」などと恫喝した。

 

この件についてクレスツェンツが警察に相談したところ、ターラー兄弟は警察に身柄を拘束され、取り調べを受けた。

 

彼らは犯行を否認し、証拠もなかったことから、3~4週間後に釈放されたという。

 

いずれにせよ、ターラー家については、家長(父親)も含めて男はほぼ全員嫌疑を受け、取り調べの対象となったが、証拠は挙がらず、逮捕には至らなかった。

 

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ターラー家の人間以上に地域住民から疑惑の目で見られていたのが、ローレンツ・シュリッテンバウアーだった。

 

かつてヴィクトリアと恋仲だったが、アンドレアスの反対に遭い結婚が叶わなかったこと、

グルーバー父娘を近親相姦の罪状で訴え、刑務所に叩き込もうとした過去、

2歳ヨーゼフの出生にまつわる謎や、シュリッテンバウアーによる不可解とも思える(2歳ヨーゼフの)認知の噂・・・

 

これらはすべて地域住民に知れ渡っており、

加えて、6人の惨殺遺体を発見した時の冷静すぎるとも見えた態度や、グルーバー家の内部構造について、なぜか妙に詳しそうにしていたこと、

なくなっていたとされる鍵を使って南側の玄関を開けたこと、

遺体をもとの位置から動かす、家畜の餌やりのため忙しく立ち働く、

大勢の野次馬を現場に引き入れ、各遺体のもとへと案内するなど、見ようによっては現状変更による証拠の隠滅とも思える行為を行っていたことからも、シュリッテンバウアーへの人々の疑惑は強固なものとなっていた。

 

「2歳ヨーゼフの出生と認知にまつわる秘密をネタに、シュリッテンバウアーはグルーバー家から金を強請(ゆす)っていたそうだ」

 

そんな噂も囁かれた。

 

彼には明確なアリバイもなかった。

 

「事件のあった日の夜、シュリッテンバウアーは干し草置き場で、一人で干し草泥棒の見張りをしながら一夜を明かしていたそうだ。彼の妻がそう言っていた」

 

そんな噂が広められ、噂を伝え聞いた者の口から警察の耳にも入れられた。

 

噂の出どころは、遺体の第一発見者の一人であり、事件後早くからシュリッテンバウアーを犯人視して対立関係になったヤコブ・ジーグルだった。

 

1931年に行われた聴取の中で、シュリッテンバウアーは干し草置き場での一夜について問われた。

 

「犯行が行われた時間帯、あなたは家にはおらず、干し草の上で寝ていたそうだね?」

 

警察のこの質問に対し、シュリッテンバウアーは、

 

「それは人々が勝手にそう言っているだけで、事実ではありません。その時間帯、私は妻と一緒にいました」

 

として、噂を否定している。

 

一方のジーグルは、第2次大戦後に行われた再聴取の際にも、

 

「あの当時、シュリッテンバウアーの子供たちはいつも、『(犯行時間帯には)父は干し草置き場で泥棒の見張りをしていた』と言っていた」

 

として、同様の証言を繰り返した。

 

1926年1月、シュリッテンバウアーはシュローベンハウゼンの地方新聞に広告を出し、

 

「私についてヒンターカイフェック殺人事件に関係しているという噂を立て、あるいはそれを広める者に対しては法的手段をとる」

 

と警告を発している。

 

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地域住民からは疑われていたシュリッテンバウアーだが、捜査当局の心証はどうだったのか。

 

この点、初期の当局によるレポート---例えば主任捜査官ライングルーバー、検事レナー、検事ピールマイヤーらのレポート---を見る限り、シュリッテンバウアーについては、捜査対象であることは認めながらも、

 

「かつての諍(いさか)い以降はグルーバー家と仲たがいしている関係にはなく、あそこまでの事件を起こす動機が見当たらない」

「温厚な人物であり、あのような残酷な事件を起こすことは考えにくい」

「遺体発見時の彼の不自然な挙動は、息子である2歳ヨーゼフが殺害されたことによるものであろう」

 

などとして、最重要容疑者とは見ていなかったことがうかがえるが、

 

1930年にライングルーバーの跡を継いで主任捜査官となったマルティン・リートマイヤーは、そのレポート(1931年2月5日)の中で、又聞きや明らかな事実誤認をもとにシュリッテンバウアーを犯人視する地域の人々に苦言を呈しつつも、

 

しかし、「『シュリッテンバウアーには動機がない』としてきた過去の考察については、再考の余地がある」として、

シュリッテンバウアーとグルーバー家との間にあったかつての諍(いさか)いに着目しつつ、あり得る犯行動機として、次のような筋読みを展開している。

 

すなわちリートマイヤーによると---シュリッテンバウアーが犯人だとすれば---1918年、ヴィクトリアがその実父アンドレアスにより妊娠したことがすべての始まりだった。

 

父娘はほんの数年前に、近親相姦の嫌疑により逮捕収監歴があった。

 

同じ嫌疑による再びの逮捕収監を免れるため、二人は一計を案じ、「シュリッテンバウアーをお腹の子の父にしよう」ということになった。

 

ヴィクトリアは、当時付き合っていたシュリッテンバウアーに妊娠を知らせ、「あなたの子だ」と告げたのである。

 

ところが、妊娠期間から不信を抱いたシュリッテンバウアーが子の認知を拒否し、父娘を近親相姦の罪で当局に告発、

 

警察に身柄を拘束されたアンドレアスは、シュリッテンバウアーに対して、

 

「訴えの取り下げや子の認知の見返りとして、金も払うし、ヴィクトリアとの結婚も認める」

 

ということを約束した。

 

シュリッテンバウアーはこれを了承して訴えを取り下げ、子の認知もしたが、

 

身柄拘束から解放されたアンドレアスが「ヴィクトリアとの結婚を認める」という約束を果たすことはなかった。

 

ここにきてようやく、シュリッテンバウアーは自分が受け持たされた奇妙な役回り---グルーバー父娘を逮捕収監から免れさせるために子を認知するだけの役回り---に気付いたのである。

 

腹の虫の収まらないシュリッテンバウアーは、せめてこの件をネタにグルーバー家から金を得ようと強請(ゆす)りを続けていたが、ケチで知られるグルーバーから得られるものはなかっただろう、

 

やがてこうした裏事情に絡む話し合いが紛糾した末に、激昂したシュリッテンバウアーが、まずはヴィクトリアを殺害し---ヴィクトリアと72歳ツェツィーリアの両方または一方に首を絞められた跡があったという---続いて、その他の家族やメイドを殺害したのではないか、

 

この読みは確かな証拠に裏付けられているわけではないが、可能性としてはあり得る、なぜならこのように見れば、物取りよりもむしろ怨恨のように見える犯行の説明はつくし、2歳ヨーゼフすら残酷に殺害されたことの説明もつく、

 

少なくとも私(リートマイヤー)の印象では、シュリッテンバウアーは2歳ヨーゼフを自分の本当の子供だとは思っていなかったのであり、

 

「以上の観点に立った時、2歳ヨーゼフの死をことさらに嘆いて見せた彼の態度は注目に値するのである」

 

と、リートマイヤーは自身の見解を締めくくっている。

 

 「シュリッテンバウアーは、2歳ヨーゼフを自分の本当の子供だとは思っていなかっただろう」というリートマイヤーの勘は、おそらく当たっていたと思われ、

その後---1931年3月末---にミュンヘンで行われた聴取で、「あなたは本当にヨーゼフのことを自分の子供だと思っていたのか?」という警察の問いに対して、シュリッテンバウアーは、「わかりません。それは言えない」と答えている

もし、「私の子供だと思っていた」と答えれば、警察からは、「ではなぜあなたは過去に、あの子について祖父アンドレアスとヴィクトリアの近親相姦で生まれた子だと騒いで、警察に告発までしたのか?」という突っ込みを受けるであろうし、

逆に、「実は私の子供だとは思っていませんでした」と答えれば、「ではなぜあなたは納屋での4遺体発見時に『私の息子はどこだ?』などと言って、勇敢にも一人で畜舎の奥に歩を進めたのか?」と別の突っ込みを受けるだろうから、

そのあたりを用心して、「わかりません。それは言えない」という慎重な答えになったのではないかと思われる。

ただ、シュリッテンバウアーもそのあたりを気にしてか、警察による「納屋で4遺体を発見した時、他の発見者らが納屋の外に出たにもかかわらず、あなたは一人で畜舎を通り抜け、居住エリアへと向かったわけだが、怖くはなかったのか?」との質問に対して、

「あの時は、私の坊や---2歳ヨーゼフのこと---が飢えているに違いないと思い、そのことだけで頭がいっぱいでした。もし仮に自分の子ではなかったとしても、(幼い子供がそんな状況にあるなら)可哀そうに思って、直ちに駆け付けようとしたことでしょう。そんな興奮状態にありましたから、誰が道を阻もうと蹴散らしていく勢いで、怖さなどは感じていませんでした。」

として、暗に、「仮にヨーゼフが自分の本当の子供ではなかったとしても、私がとった行動は変わらなかっただろう」と、自己の行為を正当化している。

この聴取の後、同年5月に記されたレポートにおいて、リートマイヤーは、

「地域ではシュリッテンバウアーを犯人視する見方が支配的であり、かつてはシュリッテンバウアーの潔白を支持していたヴァンゲンの元区長でさえ、今ではシュリッテンバウアーへの疑惑を表明するに至っているという」

と記しつつも、シュリッテンバウアーへの「徹底した聴取」の結果として、「彼が犯人であるということは全くありそうにない」と、自身の見解を述べている。)

 

結局、シュリッテンバウアーについても、証拠は挙がらなかった。

 

1926年11月4日午後3時、シュリッテンバウアーの家で火災が発生した。

 

原因は、(蒸気式)脱穀機のボイラーから出た火花だった。

 

第1次大戦中に建てられていた家屋が全焼したが、シュリッテンバウアーによると、この時、彼がヴィクトリアから受け取っていたという「息子ヨーゼフの養育費については、支払いを免除する」旨の覚書も焼失したという。

 

損失はすべて保険で賄われ、前よりも大きくて広い庭を持つ家に建て替えられた。