水曜日の絞殺魔・佐賀女性7人連続殺人事件・その5 | 雑感

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たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

佐賀女性7人連続殺人事件

(北方事件の位置関係について、ざっくりとわかる図。黄色い矢印が、7人目の被害者であるYさんの関係)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

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 1989年1月発生の第7の事件

 

 

佐賀女性7人連続殺人事件

 

 失踪時の状況


被害女性Yさん(当時37、既婚)は、杵島郡北方町大崎の在住で、北方町志久にある縫製会社・リムス(株)の従業員だった。

 

Yさんの嫁ぎ先は、北方町志久大峠の遺体発見現場にほど近い集落だったが、事件の1年ほど前(1988年1月)から夫と別居して、北方町大崎の実家に戻り、両親と長男(当時小4)の4人で暮らしていた。

 

1989年1月25日の午後6時55分、Yさんは職場のタイムカードを押して退社した。

 

同日午後7時15分ごろに大崎の実家に帰宅し、着替えもせずに、母親が用意していた夕食を家族とともにとり始めた。

 

午後7時25分ごろ、電話がかかってきて、Yさんが受話器を取り対応した。

 

その時のYさんの言葉は、「いまどけおっと?(いまどこにいるの?)」「はい」などというもので、通話時間は20秒くらいだった。

 

相手の声は家族には聞こえず、名前もわからなかった。

 

電話のあと、Yさんは食事を済ませて、全員の食器を流しに運んで片づけた。

 

午後7時45分ごろ、Yさんは風呂にも入らず、座敷で服を(ズボンから)スカートに着替え、白のカーディガンを着て口紅や化粧をし、バッグを肩に掛け、赤の軽自動車(ダイハツ・ミラ)に乗って外出した

 

出かける際、母親には「友達の車がパンクしたので、山内町まで友達を送っていく」と言い残した

(注:「山内町」は当時、杵島郡に属しており、Yさんが住んでいた北方町大崎から西に約10kmのところにあった。山内町は2006年に武雄市・北方町と合併し、現在は「武雄市山内町」となっている)

 

小学4年の息子が「自分もついていく」と言ったが、Yさんはこれを許さなかった。

 

この外出を最後に、Yさんは消息を絶った。

 

のちの調べによると、Yさんには山内町に友人はいない、ということだった。

 

(1989年1月28日付の毎日新聞に、「Yさんが軽乗用車で出掛けたまま帰宅しないため、父親が大町署に捜索願を出した」とあるが、何日何時の時点で捜索願を出したかは不明。)

 

 遺体発見

 

1989年1月27日の夕刻、Yさんの自宅から直線で約3km離れた北方町志久大峠の雑木林で、成人女性3人の遺体が発見された。

 

うち一体は白骨化しており、これは、先述した武雄市武雄町富岡在住の老舗割烹仲居・Fさん(当時48)の遺体だった。(死因不明)

 

うつ伏せの状態でセーターとスラックスを着用し、上半身の腐乱の著しい遺体があったが、これは、前年(1988年)の12月7日夜に「ミニバレーの練習に行く」と言い残して失踪していた、北方町志久の主婦・Nさんの遺体だった。(死因は扼殺)

 

Nさんの遺体から約1.3m離れた場所に、白のスカートにカーディガン姿で仰向けに横たわる、新しい遺体があった。

 

この新しい遺体が、2日前(1989年1月25日)に「友達を山内町まで送ってくる」と言い残して車で外出したまま消息を絶っていたYさんの遺体だった

 

Yさんの遺体は、1月28日の午前零時に、佐賀医科大学法医学教室で解剖に着手された。

 

死亡から解剖着手時までの経過時間は約2日とされ、死因は鼻と口をふさがれ手で首を絞められたことに基づく窒息死、胃の内容物の消化程度や腸内容の程度から、食後約1時間以内に死亡したものと推定された

 

また、遺体の古かったFさんやNさんについては精液などの鑑定は不能だったが、Yさんについては、体や下着の一部からO型の精液が検出された。

 

検出されたその精液の状態から、最後に外出してから殺害されるまでの約1時間の間に付着したものではなく、その約1日前に付着したものと推定された。

 

 遺留品の発見状況

 

Yさんの事件では、遺留品が比較的広い範囲に分散して遺棄されていた。状況は以下の通り。

 

ショルダーバッグ

1月26日(遺体が発見される前日)の午前8時ごろ、遺体発見現場から西側に直線で約1.9km離れた町道沿いで、登校中の小学生によってYさんのショルダーバッグが発見された。

小学生はこれを祖母に渡し、1月27日(遺体発見日)の午前9時ごろに祖母が駐在に渡し、同日夕方に遺体で発見されたYさんの遺留品であることが判明した。

このショルダーバッグは革製で、色は焦げ茶。

Yさんは平素、このバッグに財布やキャッシュカード、預金通帳、印鑑、化粧品などを入れており、「命と同じくらい大事」と言って、肌身離さず持ち歩いていた。

あるとき、同僚がこれを手に持ってみたところ、かなり重い手ごたえを感じたという。

町道沿いで拾得されたそのショルダーバッグには、空の財布(現金2円)、健康保険証、メモ帳、ハンカチ、印鑑、そしてYさんが失踪時に乗って出た軽自動車のキーが入っていた。

 

化粧品ショッピングカード

1月26日(遺体が発見される前日)の正午ごろ、遺体発見現場から直線で約2km離れた国道34号線沿いの薬局そばの路上で、Yさんのメナード化粧品ショッピングカードが拾得され、その15分後に駐在所に届けられている。

 

Yさんの車(赤のダイハツ・ミラ)

1月27日の午後7時35分ごろ(遺体発見の約1時間半後)、武雄市朝日町甘久のボウリングセンター「武雄ボウル」の駐車場で、Yさんの車(赤のダイハツ・ミラ)が、警察官によって発見された。

車は、武雄ボウルの西側駐車場ほぼ中央に、北向きにとめられていた。

車はロックされており、窓も全て閉まった状態で、車内に特に乱れはなかった。

 

佐賀女性7人連続殺人事件

佐賀女性7人連続殺人事件

佐賀女性7人連続殺人事件

(1枚目、1981年10月、武雄ボウルを上空から。2枚目は現在のグーグルアースより。ボウリング場はゲームやカラオケ店なども併設されて複合遊興施設となり、その周囲には、スーパーや100円ショップなどができ、駐車場も拡大されている。3枚目は、県道24号線から見た図)

 

メモ帳・デパートの商品券

2月5日の午後4時10分ごろ、北方駅近くの国道34号線沿い(かみや旅館の前)に設置されていた自動販売機横の空き缶入れから、Yさんのメモ帳と、デパートの商品券等(玉屋おたのしみ会お買物票および同会会員証)が見つかった。

この商品券は伊万里市内のデパート(伊万里玉屋)のもので、まだ数千円が未使用のままだった。

 

運転免許証や現金など

2月6日の午前10時7分ごろ、遺留品捜索にあたっていた機動隊員が、遺体発見現場から西方に約1km離れた町道沿いの草むらで、ビニール製の運転免許証入れに入ったYさんの運転免許証を発見した。

それは、町道から約6.9メートル離れた、町道の法面とその南側にある杉林との中間付近に遺棄されていたという。

この運転免許証入れには、運転免許証のほかに、千円札2枚、500円記念硬貨2枚、Yさんの源泉徴収票などが入っていた。

 

以上の遺留品から、犯人の指紋は採取できなかった。

 

佐賀女性7人連続殺人事件

(遺留品の分布状況。画像左下の「武雄ボウル」から右上の「3女性遺体発見現場」までは、直線距離で約5.5km。ショルダーバッグや免許証、メモ帳などのように、詳細な位置が特定できてないものもあるので、「だいたいこのあたり」ぐらいの感じで)

 

これら遺留品が捨てられていた位置から、「犯人はYさんの遺体を大峠の雑木林に遺棄した後、山道から国道へと左回りに周回しながら、次々に彼女の持ち物を捨てていったのではないか」との見方がある。

 

 最後の外出以降の、「Yさんと思われる女性」および「Yさんのものと思われる車(赤のダイハツ・ミラ)」の目撃状況

 

Yさんが1月25日の午後7時45分ごろに車で実家を出て以降、「Yさんと思われる女性」および「Yさんのものと思われる車」の目撃情報がいくつかあるので、以下、紹介してみる。

 

目撃証言その1、女性Aの場合

1月25日の午後8時ごろ、A(女性)は武雄ボウル駐車場に車でやってきたが、その際、同駐車場に赤い軽自動車がとまっており、そのそばに、白っぽい服を着た中年の女性が立っているのを見た。

その女性は誰かと待ち合わせをしている様子だったが、Aが次に見たときは、直後に入ってきた白色の乗用車の助手席に乗っていた。

その白い車の車種は、「トヨタ・クレスタ」だった。

この車種は、北方町周辺だけで約130台、佐賀県全体では約500台が登録されていた。

 

目撃証言その2、Bの場合

1月25日の午後8時ごろ、武雄ボウルの西側駐車場で、Bが帰宅のため自車に乗って後退しようとしたところ、自車の後ろに北向きに止まっていた赤のダイハツミラに衝突しそうになった。

同車(ミラ)のライトはついておらず、エンジンもかかっていなかったという。

 

目撃証言その3、武雄ボウル支配人Cの場合

1月26日の午前8時30分ごろ、武雄ボウル支配人のCが、武雄ボウル西側駐車場の中央からやや北東よりの地点に、赤色の軽自動車が北向きに駐車されているのを目撃していた。

 

Yさんの車は、1月27日の午後7時35分ごろに、武雄ボウルの西側駐車場にとめられているのを警察官によって発見された。

先のBとCによる赤い軽自動車の目撃地点は、この警察官による発見地点と、ほぼ一致していた。

 

目撃証言その4、釣り具製造会社経営Dの場合

先述した、いかにも怪しい「白のトヨタ・クレスタ」の他にも、事件直後から新聞で報じられた情報があった。

それは1月25日午後8時ごろ(Yさんが車で家を出た約15分後)、武雄ボウルの西側駐車場に、「魚のウロコの模様に似た派手な飾りの付いたトラック」が駐車されていた、というものだった。

このトラックの目撃者(以下、D)は、当時、釣り具の製造会社を経営しており、ルアーの開発に当たる中で、(ルアー表面の)魚のウロコ模様を表現するのに苦心していた。

そんな折、武雄ボウルに車でやってきたDは西側の駐車場に車をとめたが、自車の隣に、魚のウロコ模様に似た飾りのついたトラックがとめられているのを見た。

ウロコ模様の飾りは、フロントガラス下部と、運転席上部に付いていた。

 

佐賀女性7人連続殺人事件

佐賀女性7人連続殺人事件

(ウロコバイザーと、車両への装着例。画像の車両は事件とは関係ありません)

 

それは白っぽい色のトラックで、大きさはDの車(排気量1600cc程度)とさほど変わらず、軽トラックか普通車のトラックかは分からないが、2トン車や4トン車ではなかった。

トラックの運転席には誰もいなかった。(もし誰かが乗っていたなら、その運転手に「このウロコ模様の飾りはどこから買ったのか?」ということを聞いていただろうということから、誰も乗っていなかったことは記憶に残っているという)

 

実は、殺害されたYさんには当時、親しい間柄になっていた男(当時26)がおり、この男(以下、M)が、同様の魚のウロコ模様の飾り(ウロコ模様のステンセス製バイザー)の付いたトラックに乗っていた。

 

Mの当時の実家は、3女性の遺棄現場から数百メートルの位置(大峠地区)にあり、Yさんの嫁ぎ先も同じ地域内にあった。

(ただしYさんは当時、夫とは別居して、大崎地区の実家に戻っていた)

 

Mは、Yさんの交友関係ということで早くから捜査線上に浮上し、1989年1月27日から大町署において、4日連続で取り調べを受けたりしていた。

 

大峠での遺体発見後、Mは勤め先を退職し、1989年5月ごろ、実家を出て福岡で暮らし始めた。

 

1989年10月、Mは覚せい剤使用の罪で逮捕され、3女性殺害事件(北方事件)についての任意の取り調べを受ける中で、同年11月、犯行を認める旨の上申書を書いたが、すぐに否認に転じた。

 

2002年6~7月にかけて、佐賀県警はMを北方事件の容疑者として逮捕・起訴したが、紆余曲折を経て、2007年4月に無罪判決が確定した。(後述)

 

Mはその後(2012年5月)、覚せい剤取締法違反(使用)と、福岡、宮崎、大分、鹿児島の4県で127件の窃盗事件を繰り返したとして逮捕されている。

 

 その他の状況(Yさんの当時の交際関係、いたずら?電話など)

 

先述した通り、Yさんには当時、親しい間柄になっていた男(M、当時26)がいた。

 

Mは、1984年7月20日に、窃盗、覚せい剤取締法違反(使用)の罪により、懲役1年6月・3年の執行猶予・保護観察の有罪判決を受けた後、北方町の実家に戻り、農業の手伝いをしていたが、同年12月ごろからC商店で働くようになった。

 

C商店は生コン会社に運転手を派遣しており、Mも主に鹿嶋市にある生コン会社に派遣され、そこで運転手の仕事をしていた。(鹿嶋市は北方町の南方にある市。Mの実家から生コン会社までは、車で約30分)

 

その一方で、Mは1985年ごろから覚せい剤の使用を再開させ、白石町や武雄市の暴力団から覚せい剤を購入しては、北方町の山中に止めた車の中で使用していた。

 

1986年9月に結婚し、北方町の実家で、母や妹とともに(嫁も含めて4人で)暮らしはじめたが、Mの浮気や、暴言、暴力等で、家庭内は平穏ではなかった。

 

1987年10月、Mは覚せい剤使用の容疑で逮捕され、同年12月16日、懲役1年2月の実刑判決を言い渡されて服役した。(服役中の1988年3月に、妻と離婚)

 

1988年9月に刑務所を仮出獄し、再び北方町の実家に戻って、もとのC商店に勤め始め、砂等を運搬する運転手として働いていた。

 

仮出獄後、Mには服役前から交際していた女性で、結婚を考える相手がいたが、その一方で、他の女性にも誘い出しの電話をするなどしていた。

 

1988年12月の初旬ごろ、Mは、自宅と同じ地域に嫁いできて顔を見知っていたYさんが嫁ぎ先を出て、大崎の実家に帰っていることを知り、人に尋ねてYさんの電話番号を入手し、電話での誘い出しに成功した。

 

これをきっかけに二人は親しい仲になったが、MがYさんと会うときには、MがYさん宅に電話をかけて、会う場所や時間を決めていた。

 

Yさんは指定された場所に車でやってきて、Mの車に乗り換え、二人でホテルに向かっていたという。

 

これらの事情を、当時のYさんの家族(同居の家族、両親や息子)は知らなかったが、Yさんは実妹にはこのことを打ち明けていた。

 

実妹によると、Yさんは交際相手であるMについて、「北方町の地元の人間で、年齢は26~27歳程度、父親はなく、実家に母親・妹と3人暮らし。家業の農業は人に任せ、自分は派手な装飾のついた軽トラックに乗り、運送の仕事をしている」「以前は大阪に居たといっている」などと語っていた。

 

また、Yさんは実妹に、Mから脅されたことも語っていた。

 

それによると、Yさんが行方不明になる数日前のこと、YさんがMに対し、「もう会わないほうがいいのではないか?」と言ったところ、MはYさんを崖のようなところに連れていき、成人の日に小城町で起きた交通死亡事故を引き合いに出して脅したという。

(注: 事件当時、成人の日は「1月15日」だった。また「小城町」は北方町から10km程度北東にあった町で、現在は他の町と合併して「小城市」になっている)

 

Yさんの家族の証言によると、Mによると思われる電話での誘い出しが頻繁にあった時期は、1988年(昭和63年)12月から1989年(平成元年)1月にかけてのことだった。

 

その時期、Yさんは、午後7時~7時半ごろの間に何者かから電話を受け、「会う約束をしていた」「友達が近くまで来ているので、ちょっと行ってくる」などと言って、食事や洗い物、風呂をすませ、服を着替えて出かけることがあり、週の半分くらいは、そのようにして夜間に外出していた。

 

外泊をするわけではなく、外出時間はおおむね1時間程度だった。

 

時に小学4年生だった息子が、「自分もついていく」と言うことがあったが、Yさんは、「友達の所へ行くけん。もう遅かけん、連れて行かれん」などと言って、連れて行かなかった。

 

時には息子に添い寝し、寝かせつけてから、午後9時30分ごろに家を出ることもあった。

 

失踪の前日(1月24日午後7時30分ごろ)にも食事中に電話があり、Yさんは受話器を取り、小さな声でぼそぼそと話をして電話を切った後、食事や食器の片付け、風呂などを済ませ、座敷で服を着替え、化粧をして、「友達ば送ってくっけんね。遅うなっけんね」と言って、午後8時ごろ、車に乗って外出した。

 

さらに、その前日の1月23日の夜にも、Yさんは外出していた。

 

同じ時期(1989年1月2日午後8時ごろ)、Yさん宅に、不審な電話もかかってきていた。

 

その不審な電話は男の声で、Yさんに対して、「Aさんは元気ですか。Aさんと話ばしてみたいけど、あんまい分かいやらんけん、いつか話ばしゆうかね」などと言っていた。Yさんは電話の相手に、「どちらさまですか?」と、10回ほど言っていたという。

(注、「Aさん」とは誰かは不明。Yさんの夫は当時、体を壊していたので、Yさんの夫のことかもしれない)

 

その前年(1988年)の10月には、Yさんのもとに、「だんなさんの仲間」という男から、「だんなさんと別居しとるやろ。話しがあるけん、出てこんね」などと誘い出すような電話があり、それはYさんが行方不明になる直前まで続いた、という情報があるが、その電話の主と、89年1月2日にかかったという不審電話の主が同一人物であるかどうかは不明。

 

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 7事件のうち、最後の3件(北方事件)についての容疑者逮捕・起訴・無罪判決

 

これまで見てきた以下の7つの事件、(YやNがかぶっているので、属性で見分けていただければと)

 

1. 1975年8月、中1女子・Yさんの事件---(須古小学校の便槽で遺体発見)

2. 1980年4月、喫茶店従業員・Hさんの事件---(須古小学校の便槽で遺体発見)

3. 1981年10月、縫製会社勤務・Iさんの事件---(三養基郡中原町で遺体発見)

4. 1982年2月、小5女子・Nさんの事件---(三養基郡北茂安町で遺体発見)

5. 1987年7月、割烹仲居・Fさんの事件---(北方町志久大峠で遺体発見)

6. 1988年12月、主婦・Nさんの事件---(北方町志久大峠で遺体発見)

7. 1989年1月、縫製会社勤務・Yさんの事件---(北方町志久大峠で遺体発見)

 

このうち、5~7番目の事件(いわゆる「北方事件」)については、その後、紆余曲折を経て容疑者(先述のM)が逮捕・起訴され、無罪判決が下りており、そのくだりは、当該事件のウィキペディアにも記載されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%B3%80%E5%A5%B3%E6%80%A77%E4%BA%BA%E9%80%A3%E7%B6%9A%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

補足を加えながら引用してみると、(ウィキペディア中「H」とされている部分は、当ブログでの表記に合わせて「F」に変えてあります。Fさん → 武雄温泉街の割烹仲居さん)

 

 

「1989年11月、別件(覚せい剤取締法違反)で佐賀県警大町署に拘置されていた男(M)が、任意の取り調べに対し、(北方事件について)犯行を認める上申書を書いたが、すぐに『暴行を受けて書かされた』と否認に転じた。

その時には殺人罪での立件はなされなかったが、2002年6月11日になって、佐賀県警は(住居侵入と窃盗で)鹿児島刑務所に服役中だったMを、Y殺害の容疑で逮捕した。

(F殺害容疑での逮捕は7月2日、N殺害容疑での逮捕は7月9日。Y殺害の容疑で逮捕されたとき、Mは39歳だった)

F殺害事件の公訴時効成立約6時間前となる7月7日に起訴。2002年10月22日より公判が開始され、検察側は死刑を求刑したが、

2005年4月10日、佐賀地方裁判所で行なわれた公判で、物証の乏しさや上申書の証拠価値の無さ(限度を越えた取り調べの上で担当者の誘導により作成されたと認定)などにより、Mに無罪が言い渡された。

その後検察側が控訴していたが、2007年3月19日の福岡高等裁判所(二審)でも、一審の佐賀地裁と同様に無罪の判決が言い渡されている。(Mは二審の判決時、44歳)

二審では、検察側は新たにミトコンドリアDNAの鑑定結果を提出していたが、被告人を有罪とする根拠とは認められなかった。

なお、判決では長期間に渡って被疑者を拘束した上での取り調べなど、佐賀県警の杜撰な捜査が指弾された。

2007年3月29日、福岡高検が最高検察庁と協議した結果、二審の判決には上告に必要とされるであろう重大な事実誤認ないしは判例違反が見あたらない上に、原判決を覆すのに必要とされる物証も乏しいことから上告を断念。4月2日の上告期限を過ぎても上告せず、被告人の無罪が確定した。」

 

 

こうして、最後の3事件(北方事件)についての無罪判決が確定することにより、すでに時効となっていた先の4事件も含めて、7事件のすべてが未解決事件となった

 

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 まとめ

 

「水曜日の絞殺魔・佐賀女性7人連続殺人事件」

 

よく知られたこのタイトルで取り上げてみた。

 

しかし、考えてみるとこれは、「絞殺にこだわりを持つ、同一犯による7連続殺人事件」という印象を与えるもので、「このタイトルにしてよかったのだろうか?」という気が、今はしている。

 

調べてみると、7遺体の中には「死因不明」や「扼殺」によると推定された遺体もあり、「絞殺」でほぼ間違いないのは2遺体のみだった。(81年の縫製会社勤務Iさん、82年の小5女子Nさん)

 

7つの事件は、同じ一人の犯人による連続殺人事件だったのか、それとも、別々の犯人によるのか、仮に別々の犯人によるとすれば、どの事件とどの事件が同一犯によるのか、ということも気になった。

 

この点、「複数犯の可能性」であるとか、「身内による犯行の可能性」であるとかを度外視して考えてみると、まず、最初の便槽の2事件(1975年8月と80年4月の、白石町立須古小学校の便槽の事件)について、

 

人を殺して同じ小学校の便槽に遺棄する犯人が、そう何人もいるとは思えない・・・という単純な理由から、この2事件は、同一犯によるのではと思った。

 

おそらく、車を使った犯行かと。

 

なぜ車かというと、75年8月の事件では、被害者(中1女子)は北方町大渡の自宅から失踪して、白石町の須古小学校(の便槽)で遺体で発見されており、

 

80年4月の事件では、被害者(20歳女性)は大町町福母の自宅から失踪して、白石町の須古小学校(の便槽)で遺体で発見されており、

 

「大渡(福母)→須古小学校」の道路距離は4km前後とけっこう離れており、しかしながら、そのルート上での被害者と犯人の目撃情報が一切ないと。

 

このことから、犯人は徒歩や自転車ではなく、車を使って被害者を(生存中か死後かは別として)須古小学校へと移動させたのではないかと。

 

佐賀女性7人連続殺人事件

(福母、大渡、須古小などの位置関係)

 

仮に車を使用したのであれば、犯人像としては、「1975年8月の時点で車の免許を持ち、車を運転できた人間」ということにもなってくるのではないか、と思う。(車を使わなかった、あるいは、使ったとしても無免許運転だった、ということもなくはないが)

 

便槽の事件では、被害者2人と接点のある白石町在住の男(80年の事件当時29歳、須古小の卒業生)が重要参考人として浮上し、過去に起きた婦女暴行など、別件の容疑で逮捕され、追及を受けた。

 

男の自宅の家宅捜索により、被害者の一人であるHさんの父親宛てに送られた脅迫状---「娘ハ帰ラナイダロウ」「苦シメ」というもの---と同じ便箋が発見され、脅迫状の筆跡もその男と一致したため、男はその件でも逮捕されたが、

 

結局、殺人事件に関する直接的な証拠がそろわず、本件での逮捕は見送られている。

 

便槽に続く2事件、つまり、「1981年10月に、白石町の縫製会社勤務Iさん(27歳女性)が、北方町の失踪地点から約40km離れた佐賀県三養基郡中原町の空き地で、絞殺遺体で発見された事件」、

 

そして、「翌82年に、同じ三養基郡の北茂安町に住む小学5年女子Nさんが下校中に行方不明となり、北茂安中学体育館北側の農地で、絞殺遺体で発見された事件」、

 

これらの2事件が、先の便槽の2事件と関連があるか(同一犯か)ということを考えてみると、

 

まず、81年10月の事件は、白石町在住で北方町の縫製会社勤務Iさんが、勤め先近くのスーパーの駐車場で目撃されたのを最後に消息を絶っており、北方町~白石町との関連がうかがわれること、

 

また、Iさんが消息を絶つ直前に、赤茶色の車に乗った30代程度の男と親しげに話しているのを目撃されていること、

 

失踪場所であるスーパーの駐車場から約40km離れた三養基郡中原町の空き地で遺体で発見されており(絞殺体、性的暴行の痕跡なし)、犯行には、車が使用された可能性が高いこと等から、

 

同じく車を使用した可能性が高く、北方・白石・大町あたりが舞台となっている便槽2事件との関連がある(同一犯)かもしれない、という気がした。

 

佐賀女性7人連続殺人事件

 

次に、82年の北茂安町の小5女子Nさんの事件では、被害者の失踪場所・遺体発見場所がともに便槽事件関連の地域(北方、白石、大町)から35~40km程度離れた「北茂安町(佐賀県三養基郡)」であり、北方・白石・大町との接点が、一応は出てこない。

 

また、この事件では、バス待ちの主婦や下校中の女子らに、「車に乗っていかんね?」などと声をかける、車に乗った怪しい男(30~40代)が目撃されているが、男の車は「福岡ナンバー」だったそうで、こうなるとさらに便槽事件との関連は微妙かもしれず、単に、「福岡から遠征してきていた変質者」による犯行だったのではないかという気もしてくる。

 

一方で、「佐賀の北方か白石あたりに住んでいる変質者が、福岡ナンバーに乗って北茂安町まで遠征してきていた」「便槽事件や81年の事件の犯人が、82年の小学生殺しの時には福岡に住んでおり、福岡ナンバーの車に乗っていた」といったことも考えられるので、北茂安町の事件については、便槽事件との関連は、判断が難しいところかと。

 

1987年7月以降に起きた最後の3事件は、同じ一人の人間による犯行だと思った。

 

この3事件(いわゆる「北方事件」)については、先述のMが逮捕・起訴され、のちに無罪判決が確定している。

 

ただ、法廷では無罪となっても、地元民には、「このMが7事件すべての犯人だろう」という印象を持つ人もいるようで、裁判中にMの支援をしていた人のもとには、こんな文書も来ているらしい。

(画像は、洋泉社『殺しの手帖』鈴木智彦氏のレポートより。元画像には、モザイクはかかっていない)

 

 

佐賀女性7人連続殺人事件

「迷宮入りとなった25年前の小学生、店員を殺害し便槽に捨てるという息の詰まる事件も、奴が18歳の時にやったことではと想像している。あんたものぼせたようにMの支援者となっているが、このへんで少し頭を冷やし、よう考えてみんね?(中略)あんたはMと心中しようと思っとるね?」

 

 

佐賀女性7人連続殺人事件

「Mは限りない黒の容疑者である。殺人強姦魔の容疑者を支援する君の心底がわからない。(中略)誰もが末恐ろしさを感じる。あんたあんまり動きすぎ、少し落ち着かんかい。どこでんかんでん顔突っ込んで笑い者になっていること知っとるかい。Mが釈放されたTVを見たが、あの男振りなら何人もの女性を毒牙にかけているだろう。北方のオッチャン、パーホーマンスは程々に

 

 

気になるのは、この文書の作者は、「小学生、店員を殺害し便槽に捨てるという事件も、Mが18歳の時にやったことではないか」として、Mへの疑惑を便槽の2事件にまで広げていることだった。

(正確には、便槽事件の被害者は「中学生と(喫茶店)店員」)

 

しかし調べてみると、Mは、どうやら1962年生まれ(あるいは1963年生まれ)だった。

 

とすると、80年にはMは18歳(か17歳)だったと思われるが、75年の最初の便槽事件の時には、Mは中1、下手すると小6だったことになり、これが、車を使って被害者を須古小まで運んだとするのは、やや無理があるのではないかと思う。

 

車を使ったという前提に立たなければ、小6や中1にでも、同じ年頃の女子を誘い出し、殺害して便槽に遺棄することは、できると思う。

 

例えば、電話で須古小のあたりまで呼び出して殺害した、とかの手口だろうか。

 

しかし、そういった手口での少年犯罪を疑うのであれば、犯人の候補として、まずは須古小の在校生か、卒業生を考えてみるべきかと思われるが、

 

怪文書の作者が糾弾しているMの実家は「北方町志久」であり、白石町の須古小学校とは、直線で約6km、直線でなければ7.5km程度離れている。

 

校区が違っており、75年の最初の事件当時、Mは、須古小の在校生でも卒業生でもなかったかと思われ、少なくとも、北方事件で起訴された事実や素行の悪さだけを根拠に、Mへの疑いを便槽2事件にまで広げるのは、慎重になるべきでは・・・という気がした。

 

81年10月と82年2月の三養基郡(中原町と北茂安町)で遺体が発見された2つの事件についても、目撃された車に乗った不審者は、30代~40代程度の、それなりに年齢のいった男であり、

 

81年10月の事件で目撃された不審車の色は「赤茶色」、82年2月の事件で目撃された不審車の色は「白」であり、車種は「カローラ」「スプリンター」あるいは「ダイハツクオーレ」のようなタイプであり、ナンバーは『福岡???6950』だった。

 

81~82年当時、Mは18~19歳だったと思われ、両事件で目撃された不審な男(30~40代)とは、年齢的に合わないように思う。

 

調べがついた範囲でMの自動車歴を記してみると、

 

1984年9月ごろ、白のスバル・サンバー(軽トラック、佐賀ナンバー。北方農協でローンを組み新車で購入。この軽トラックはのちにウロコ模様のバイザーを付けるなどして、1989年1月の3女性遺体発見当時にはまだ所有していた。1989年4月23日ごろ、Mはこのトラックを売却したが、その3日後に売却先が同トラックを警察に任意提出した)

1985年9月ごろ、ダイハツ・ミラ(新車で購入)

1987年4月ごろ、グレーのトヨタ・スターレット(佐賀ナンバー。ローンを組み、板金屋から中古で購入、ダイハツミラは下取りへ)

1987年7月20日、上記スターレットを購入先である板金屋に売却

1987年7月下旬ごろ、紺色のトヨタ・マークⅡ(スターレットの売却直後に、板金屋からローンで購入。ただし、87年10月にMが覚せい剤使用の罪で逮捕されたため、同年11月か12月に、Mの母親が先のマークⅡを板金屋に処分した)

 

 

個人的な印象としては、

 

75年と80年の便槽の2事件については、同一犯(X)による犯行。(X = 75年の時点で、免許と車持ち)

 

81年の縫製会社勤務Iさんの事件も、Xによる犯行の可能性あり。(被害者の住所や失踪地点などが、白石町、北方町との関連をうかがわせる。ただし、全く別人による犯行の可能性も当然あるかと)

 

82年の小5女子Nさんの事件については、福岡から来ていた変質者による犯行の可能性があるが、単に、佐賀人Xが当時福岡ナンバーに乗っていただけかもしれず、Xによる犯行の可能性も捨てきれない。

 

87年以降の3事件(北方事件)については、Mが起訴されて無罪判決が確定、その後も地元ではMを怪しむ声は高いようで、先のいわゆる「怪文書」の作者のように、便槽事件までさかのぼってMを疑う声もある。しかし、北方事件についてはともかくとして、少なくともその前の4事件については、Mの関与は薄いのではないかという気がした。

 

いずれにしても、7事件すべての犯人が法の裁きを免れている。

 

佐賀には、「佐賀県警は大きな事件を捌(さば)けない」として、それを揶揄する「佐賀県警はさばけんけい」という、(比較的寒い)ギャグが存在するという。

 

しかし現実は、そのギャグ以上にお寒いものになっていると思うが、どうだろうか。