2019-01月に亡くなった父親
無事にみおくり
このブログを書くことは終了させた

あれから1年7ヵ月くらい
再び記していく
今度は母のこと

父が病気になり余命を告げられてからボケて
きた??と思う事が増えていた

独り暮らしがスタートして暇があれば
実家に様子を見に来ていたが
だんだん私を疎ましく想ったのか
「人生でやっと独り暮らしになり自由にやってる、今が1番幸せ」と言いはなった

耳が遠くて補聴器があっても着けるのを拒んで
テレビの音量が近所から苦情がくるのではないか?💧と思うほどになっても自分の老いは認めない

父が亡くなったあと私自身首のヘルニアを患い
リハビリなど辛い日々が続いた
自身の家事さえままならず苦しんでいた

今年に入りコロナの件が出てからは旦那も自宅にいる機会が増えていた為
余計に実家にくることは減っていた
たまに実家近くの歯医者やら病院に来て顔を見て帰るような感じ

しかし真夏のある日の朝、電話でたたき起こされ
そこから再び実家に在住し母の側にいる事となった…
父親87歳 肺がん、前立腺がん、他遠隔転移多数あり、認知症など
様々な病を抱えて
最後は痛みを感じず
夜中の3時すぎ永眠しました

最後は地方から駆け付けホスピスに泊まっていた兄夫婦に看取られた。
永眠の知らせを受けて私も母、夫と駆けつけると夜中にも関わらず担当の訪問医療の先生が来ていて死亡届を書いて帰る所だった

父親は静かになっていた
夜勤担当のベテラン看護師さんから最後の様子を聞いた
午前中からもう長くない事を告げられた父親は一時間、30分おきに酸素濃度、血圧をはかってもらっていた
夕方、私は引き上げた
その際看護師からヤマ場は明け方と言われたので覚悟して直ぐに出られる様にしていた

夜中3時の看護師のチェック
オムツの中には尿も出ていなくて
肛門も閉まっていたので
今夜は大丈夫かなと思ったと。
看護師が部屋から出た後に付き添っていた兄が呼吸がおかしいのに気がつき
直ぐにまた看護師を呼んだ

名前を呼びながら体を叩く看護師
父親は兄夫婦と看護師さんが見ている前で
永眠したと聞いた

父親はずっと昔から死ぬときは猫でもいいから見守っていて欲しいと言っていた
良かったね

ありがとう
お疲れ様
末期ガンと分かった6月末から約半年、お互い頑張ったね

父親とは仲が良くはなかった。
昭和一桁生まれの頑固でプライドばかり高く、自分の常識を押しつけるのが堪らなかった。。
言うことを聞かなかった私は殺されるんじゃないかと思うほど恐怖と怖さ、嫌悪感を持っていた。
思惑のレールを外れた私を父親も嫌がっていた。
昔からお互いに苦手だった。
色々あったな

この6ヶ月が1番父親と近かったかもと思う。
プライドはコンプレックスと実は小心と不安の裏返しだったのかなと認知症になってから気がついた
頑張った、生き様を見せつけられた

ありがとう
お疲れ様

父親が可愛がった甥が昨年働き盛りで亡くなった。
父親は嘆き悲しんだ。
その亡き甥がお世話になった人に最後言ったという言葉が印象に残っている
その言葉を父親にも私から送りたい
これから向こうで甥に会うのかな…

「いつかまたどこかで会いましょう」






午前中お昼近い時間にホスピスより電話があった。
ドキドキする

父親の血圧が下がり始めた、呼吸が苦しそうになってきた、来てあげて下さい。
午後でも良いか聞くと「いやぁ早い方が」

落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせて
インフルエンザで寝ている母親に説明した

インフルエンザの件はホスピスみんな知っていてどうすれば良いかと言うとこんな時なので
手洗いを入口でしてマスクをして個室のドアは開けないようしてくださいと。

インフルエンザとはいえあまり熱もなく、洗濯していた位の症状だったのでホスピスから言われた緊急処置で幸いにも近くに住んでいる従弟の運転で直ぐに向かった。

父親は昨日より息を吸うのが辛くなっていた。
血圧も下がっていた
声をかける
何となく反応してくれ、酸素マスクを外して手を動かしている。
看護師さんによると痛みは感じていない

良く頑張ったね
ありがとう
声をかける

そのうち休みの夫やいとこが来てくれた
二時間くらいしてまた血圧を計るとあがってきていて持ち直す
あと何時間かで兄夫婦が新幹線でくるからと励ます

なんとか持ち直し父親は最後の頑張りをみせている

今夜はかけつけた兄夫婦がホスピスに泊まる為、自宅に一時帰宅した

帰り際看護師に次のヤマ場は明け方くらいだと思うと告げられた。

いよいよだけど
もし臨終に間に合わなくても後悔はないし
父親も満足するだろう
だってこの6ヶ月お互い頑張ったから