前回の続きです。

物集女(モズメ)という地名の起源について、色々な説があるのですが、その一つに「百舌鳥」「百舌」(モズ)説があります。

大阪の堺市に「百舌(鳥)古墳群」がありますね。その代表格が全長486メートルの大山(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵・世界遺産)です。他にも全長300メートルを超す前方後円墳が二基あります。大山古墳は5世紀半ば頃の造営といわれますが、その頃この地にこのような巨大古墳を造れる強大な権力があったことは間違いありません。

モズという地名は今は百舌(百舌鳥)―鳥のモズと表記されますが、音のMOZUは韓国・朝鮮語の모두(モドゥ)=「皆、みんな」の意からきているのでは、との説があります。

 

古代史で5世紀半ばという時期については、まだあまり分かっていない部分が多いと思いますが、間違いなく言えるのは、中国大陸・朝鮮半島からの渡来人が当時の先進文化・技術を日本列島に持ち込んでいたということです。

特に秦氏(はたし)は大きな勢力を持ち、彼らが京都盆地西南部・桂川流域の開発に取り掛かったのもその頃と言われています。太秦の広隆寺に安置されている弥勒菩薩像は、7世紀初に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から拝受したとされていますが、当時秦氏は治水や利水の先進技術を駆使して勢力を拡げ、ヤマト政権にも大きな影響力を持っていました。物集女あたりの開発にも秦氏ら渡来人系勢力が重要な役割を果たしたことは間違いありません。

 

↑広隆寺蔵・弥勒菩薩半跨思惟像

 

そして中世国人・物集女氏の出自は、秦氏とつながっているという説があるのです。物集女氏が他の土地から来て当地に勢力を打ち立てたという伝承はなく、元来この地にいた一族が戦国期に国人として力を持つようになったと考えれば、彼らのルーツは秦氏系の一族であると見ても何ら矛盾はありません。むしろ妥当な見方と思います。

秦氏が日本列島に渡ってきた経路は複数あるとしても、その一つは瀬戸内海―大阪湾―今の堺付近―淀川流域―桂川流域、であり、堺付近で巨大古墳を造った勢力に関わりがある人たちが淀川・桂川を遡り、物集女付近にも定住したということです。

 

物集女城址から南へ700メートルほど行ったところに物集女車塚古墳があります。


 

この古墳は6世紀中ごろの造営とみられる美しい前方後円墳で、今は周辺部が公園化されて「車塚緑地」になっています。

この古墳が築かれた6世紀半ばというのは、ヤマト政権では継体天皇の時代です。継体天皇は元々越前か近江北部に勢力を持っていた豪族で、ヲホド王と呼ばれていました。ヤマト政権の武烈天皇が後継者を決めないまま急死(506年)したので、大伴金村らが奔走してヲホド王を説得し、皇位につかせたとされています。

 

      ↑ 物集女車塚古墳 右―前方部、左―後円部(石室あり)。

 

ヲホド王は樟葉(くずは―現枚方市)宮で即位した後もすぐには大和に入らず、各地を遍歴し518年には弟国宮(おとくにみや)を造ったりしています。この「弟国」は今の乙訓(おとくに)のルーツですね。

 

                ↑ 物集女車塚古墳石室の案内板

 

この物集女車塚古墳に葬られたのは誰か分かっていませんが、当時この地を支配していた秦氏系?豪族の首長クラスの人であることは間違いありません。彼らはおそらく弟国宮造営にも関与し、継体天皇を支える勢力の重要な一画を担っていたと思われます。

こういった秦氏系の古代地方豪族と、中世国人・物集女氏との繋がりについて、私はよく知りませんが、古くから開けたこの地で勢力をはるには、その出自についても皆を納得させる何かの言説があったのでは、と思います。それが「秦氏の出・秦氏一族」であったことはおそらく間違いないと思います。

物集女氏が中世史に登場するのは、室町時代に天龍寺領物集女荘が設営された際、その荘官(荘園現地を差配し、年貢徴収などを請負う)としてであり、これは現地を差配している実績を買われたものでしょう。

物集女車塚の時代から中世国人・物集女氏が活動した時代まで、およそ千年ぐらいが経過しているので、地域史の推移については今後の研究が待たれますが、物集女地域の歴史のなかで、渡来人・秦氏系の人たちが果たした役割は、かなり大きかったのではないかと思います。