『ナンザン、スグコラレタシ。』当時電話のなかった我が家、急を要する伝達方法は電報だった。 助産院からの急を告げる電報を受け取った父は、バスで1時間かかる田舎の悪路を、私を乗せて自転車を走らせた。
臨月まで働いて無理の積もった母の体力は限界で、もはや産み出す力は残ってなかった。 当時、助産院では珍しく病院の先生が呼ばれて手術の方向の話がされた。私は怖かった。今度こそ母を失うかも知れない恐怖で動けなかった。
手術の用意に先生が帰ったあとも、お産婆さんが頑張って母を介助し続けた
その甲斐あってか、母の死ぬ気の頑張りが妹をこの世に誕生させた。
鯉のぼりたなびく六月の午後に850匁(現在の3200㌘弱)の元気に泣く女の子が産まれた。 この日の出来事は一生忘れる事はない。私にとって怖かったし、辛かったが、母が生きていてくれて嬉しかった。 妹の誕生の喜びはあとからだった。
その後、妹は元気にすくすく育っていったが、あまりにも無理な出産だった
せいか母は産後の肥立ちが良くなくて、ますます小さく弱くなった。
今までひとりで待つ側だった私は
ずっと家に居てくれる母に、おかえりと言ってもらえて毎日帰るのが楽しかった。
六年生最後の遠足の時期になり、貸し切りバスで海に行くことになって母に言うと、この子が居るから行くことは出来んよと言われた。
他所は知らないが、当時の遠出の遠足は、父兄も同伴が普通だった。両親や祖父母が来たりする子も居たくらいだ。
先生によく頼んどくから、辛抱してや
と言われて悲しかった。最後の遠足をどうしても一緒に行きたかった私は、
うちが、子守りするから一緒に行って欲しいと何度もねだり、とうとう母が折れた。
今なら道路状況も良いからそんなに遠い道中では無いのだが、その時は何時間もバスに揺られてやっと、穏やかな春の海に着いた。 キラキラと光る海のきれいだったこと。
波打ち際ではしゃぐ友達の中で、私は妹をおんぶ紐でおぶって打ち寄せる水際までは行けずに、流れ着いた漂流物のそばで、妹をあやしたりしていたがそれでもすごく楽しかった。
無理をして着いてきてくれた母に少しでも楽に過ごして欲しかったから、
先生が撮ってくれた写真に、妹を背負った私が写っていたが、とても好きな一枚だった。