徒然なるままに…
古い思い出が、ふと蘇るとき。
それが、楽しかったり嬉しかったりポジティブな出来事の記憶なら、
その記憶を掘り起こして、再度同じ感覚を味わいながら、更に関連した出来事まで引っ張り出して…心地よい記憶の数々に浸れる、楽しく幸せな時間
でも、
その思い出が辛く悲しい出来事だと、改めて味わうなんてとんでもない!と、再び記憶の奥底に押し戻して封印したくなる
見ないように、触らないように、鮮明に思い出さないように、
押し戻しても、しまい直しても、いっそのこと消そうとしても、
何度も何度も、時々、ふと、思い出してしまうそのネガティブな体験の記憶は、
「もう、向き合うことが出来るでしょ?」
「しっかり見て!感じて!そして手放そうよ!」
「大丈夫。過去の体験は、再びあなたを傷つけることはない。傷つけているのは、
その時、そのように受け取った、あなた自身の思考。他の誰かのせいじゃない。
誰もあなたを傷つけることなんか出来ないから。」
「握りしめて離さないのは何故?」
「瘡蓋を剥がして、ちょっとだけ痛みを再現して、まだ傷があることだけ確認して、仰々しく包帯を巻き直し、いつまでも怪我人でい続けるのは何故?」
『ふと思い出す』ということは、
潜在意識が、真の自分が、
「時間を経た今だから、その体験を正面からよく見直して、起こったことの事実を冷静に受け取って、
その当時の感情を身体中で、五感で感じ尽くして!」
「張り裂けそうだった心が、実際に胸の痛みとして感じられるほど、心底苦しんだときの感覚を再現して味わってみて!」
「今のあなた(私)なら、大丈夫だから!
ちゃんと味わったら、昇華して解放出来るから!」
…そう訴えている。
今だって、
痛いよ!
悲しいよ!
悔しいよ!
苦しい…苦しい…くるしい…
寂しいよ
何故あのとき、そう言わなかったのか。
何故あのとき、泣いて、叫んで、のた打ち回って、悲しみと怒りを表現しなかったのか…
出来なかったのか…
表現する代わりに、
ただ痛みが通り過ぎるのを、感情の嵐が収まるのを、能面のような顔で取り繕いながら日常をこなし、記憶の地層の奥底にしまい込んでしまったのか。
…当時はそうするしかなかったから。
だけど、
思いを遺したまま生き別れるくらいなら、その手で殺して欲しい!と、言いたかった。思いを伝えたかった…
そうは言っても、
苦しみから逃れるために自ら命を絶ってはならない!人生を全うする責任は果たす!と、歯を食いしばっていた…
支離滅裂で壊れる寸前のあの頃の自分を、イメージの中で抱きしめて慰める。
今日は、そうやって過ごそう。
自分の面倒は自分で看てあげないとね
どうしても一人では辛いときは、
誰かに寄り添ってもらうといい。
説教したり、分析ばかりする人ではなく、只々、気持ちに寄り添ってくれる人がいい。
自分の弱さを認め、許そう。
ときには人に頼ることも、甘えることも覚えよう。
いつもは仕事として寄り添う側の私。
たまには自分に、しっかりと寄り添ってみようと思います
感情は細胞に溜まる…ってセル(細胞)ヒーリングで習ったけど、本当なんだな。
実感として納得
こんなときにもそう思う←職業病?