母:「宿題は終わったの?えぇ!?まだこんなに残っていた
の??今まで何をやっていたの!!
あと一週間しかないじゃない!お母さんは知りませんか
らね!自分で何とかしなさい!!」
子:「…だって…グッスン(涙)」
こんなやり取り、何処からか聞こえて来そうな今日この頃…
えっ?我が家だけ!?
私が認識している限りでは、我が家は二代(母と私→私と子供)に渡ってこれに似たような会話(ほぼ一方的な攻撃)が、この時期になると毎年繰り広げられています。
恥かしいことに
皆さんのご家庭ではいかがでしょうか?
え?
「うちの子は、夏休みの初めに全ての宿題を終わらせています。おほほ…」
わぉ!!素晴らしい。なんて良い子ちゃんなんでしょう
しかも、お子さんが自主的に?…それなら言う事はございません
「うちは…子供が宿題(家庭学習も含む)を終わらせてからでないと、遊びに出しません。」
「家族でのイベントも、子供の宿題の出来次第です。期日を設けて終了を確認しないと、旅行も取りやめです!」
う~ん…よくある親子の夏休み協定ですね。我が家もそのパターンが多かったです。
ところで、
協定というと「双方がその条件に納得した上で遂行する」ということで、一見平和的ですが、
もしかして、協定じゃなくて強制になっていませんか?
親の意向だけを汲んだ、有無を言わせない一方的なお約束…命令とも言う。
夏休みの終わり頃、手付かずの宿題と格闘する我が子の苦戦を見るのは忍びない。
家族総出で宿題を手伝う夏休み最終日のスリルとサスペンス…今年こそは何とかせねば!
計画的に宿題を消化して、学力の維持・向上を図りつつ適度に遊ばせて、楽しい夏休みの思い出を作れるように仕向けたい。
…という親心。
わかります。わかりますとも
だからね、つい、言っちゃうんですよ。毎年同じ文句を。「宿題しなさーい!」って。
だって、子供のことを一番に思っているんですものね。特に、お母さんは。
そこで、提案なんですけどぉ…
ママの決め台詞。「宿題しなさい!」「勉強しなさい!」「先にやりなさい!」
これらの先回りの親切。我が子への愛の鞭。
一切、止めてみませんか?(自戒を込めて!)
これらの親による子供への指示的行為は、実は、子供の自主性を育てない行為だからです
育てないどころか、子供の「主体(意志)」を剥奪する行為なのです
例えば、
子供が「今は遊びたい」と言ったときに、親が「先に勉強をしてから遊びなさい」と指示をしたとします。
このとき、「遊びたい」は子供の自発性から出た言葉であり、「自発」は子供の「欲望」そのものです。
自発性は、やがて自主性(他の指示・援助を受けず,自力で行動すること)となり、長じて主体性(自分の意志・主義をもって行動する)に繋がります。
ここで、親の主体であるところの「先に勉強する」を子供の主体とするよう強制すると、子供は本来の欲望(主体)であるところの「遊ぶ」を自分の外へ排除しなければ、「勉強」という親の主体が中に入りません。
子供に親の主体を受け入れさせるということは、親が子供に対して、その子の主体排除を強制するということになるのです。
「私の主は私自身である」というのが自主性で、自分の意志を持って生きるということなのに、
主の部分を「私自身」ではなく「親」に入れ替えさせられてしまうということになってしまうのです。
私の中身は私自身ではなく「親」である。私は「親」という他人が入った着ぐるみ…
「我が子には自主的に勉強するようになって欲しい。」と思うのが、一般的な親の願いで、だからこその助言や指示の数々なのですが、実は、そのことが子供の主体性を無くさせてしまう要因であることを、どれだけの大人が理解できているでしょうか。
理論として学ぶと、なるほど…と思うようなことでも、親子間のやり取りとなると、なかなか素直に受け入れ、実行することが難しいものです。
それでも、知識を持たずに良かれと思って不適切なことを繰り返すよりは、つい言ってしまうこと、やってしまうことの負の効果を理解し、立ち止まって考える瞬間があるということは、自他共に利益のあることだと思います。
だったら、宿題をやらない子供をどうしたらいいのよと、思いますよね?
ヒントは、「子供に任せる」です。放任ではありません。愛を持って見守るです
母親としては、キィーーッ!!となりそうな答えですが、
この辺りのことについては、またの機会に