数学の試験は他に比べて特別難しいんだからね、と優子は呆れたように言った。
事実、専らの生徒達は数学の試験は難しい。と口をそろえて言う程だった。


「どうしよう優子」はるかが慌ててノートを机から取り出す。
「大人しく補修受けるしかないね、冬休みの」
ヤダー、とはるかは泣き真似をした。



予鈴が鳴ると、数学教師の本間雅巳がプリントの束を抱えて教室に入ってきた。
「席について」
生徒達が一斉に席に着き、騒々しかった教室が静まり返る。
日直が、起立、例、の号令をかけた。
「試験を始めます。机の上は筆記用具だけにして」
試験用紙が配られ、開始の合図で生徒達は一斉にプリントを捲り、問題に取り掛かった。
ただ一人、ノロノロと問題に取り掛かるはるかが雅巳の目に映っていた。

試験開始から暫くして、雅巳が教室を見回り始めた。


「質問がある人は手をあげて」
何人かの生徒が挙手している中、はるかはペンを置いてぼんやりとしていた。

相手の女を殺してくれようか、それとも夫の永次を殺して自分も・・・。
そんなことはいけない、わたしにははるかがいるんだから。とゆり子は首を振ってしっかりしなさい、と自分を励ました。
けれど、励ましても励ましてもあの忌々しい光景が瞳に焼き付いていてどこまでも付きまとった。
家に一人でいる間、ゆり子は何度も何度もそんなことを考えていた。

考えるたびにゆり子は憎悪に侵されていった。


「ひどいじゃない、ひどいじゃない、わたし達の家であんなこと・・・。ひどいじゃない」
寝室の永次の枕に鋏を突き立てた。
「ひどいじゃないのよ、あなた」
鋏を持つ手に力を入れて、ギリギリと中綿をえぐった。涙が頬を伝った。
「ひどいわ!」





「勉強、した?」
親友の野宮優子が、緩やかなウェーブの髪を耳にかけて言った。
はるかが周りを見渡すと、生徒達が数学の教科書とにらめっこをしている。
「え?」
「アンタ、勉強してないの?今日、試験。数学の」
「ああ・・・」
しまった、と前の席の優子の教科書を乗り出して見た。
「だめだ、全然わかんないよ」
「あーあ、補修組だね」
優子がはるかの額を中指で弾いた。

「やめてー!」
女がヒステリックに叫ぶと、その裂けそうな甲高い声は家中にビリビリと響いた。
はるかは鋏を力いっぱい振り下ろした。
女の腕が、抵抗する度に鋏にあたり、何箇所にも傷がついた。
「馬鹿なことはよすんだ!落ち着くんけ!」
永次ははるかを押さえつけた。

「あ、あたし、殺される!」
一瞬の隙を突いて、女が散らばった服を掻き集めて裸のまま玄関に走った。

足がもつれてバランスを上手く取れずに何度か躓いた。
永次も後を追い、二人は車に乗りこみ走り出した。
玄関を睨みつけたまま肩で呼吸するはるかの後姿を、ぼんやりとゆり子は見つめていた。

父が家を出た。


ゆり子とはるかは、広い家に二人きりになってしまった。
主のいない家はどこか寂しげで、じめじめとした雰囲気を放っていた。


「行ってきます」
ゆり子は浅く頷いてはるかを見送った。

ドアがパタン、と閉じてからがゆり子の絶望の始まりだった。
なんとなく気づいていた時とは違う、言いようもない憎悪の嵐が自分を取り巻く。
一パーセントの確立でもいいから、夫を信じていたかった自分の気持ちはあの日、全て砕け散ってしまった。