「先生」は、吉村達也が1995年8月8日に角川ホラー文庫から刊行した長編ホラー小説です。


物語の舞台は総美学園中等部。突然この学校に赴任してきた英語教師、北薗雪夫——彼は雪のように白い肌、鋭い眼差し、びっしりと生えた髭という不気味な外見の持ち主です。


この男には信じがたい過去があり、彼の前任校で5人の中学生を次々と殺したという「黒い噂」が語られるのですが、動機や真相が謎のまま物語は進行します。


吉村達也といえば、派手なトリックやミステリー性を重視した初期作から、徐々に人間心理の闇や怖さを突き詰める作風へと変化したことで知られています。


『先生』は、その中でも「教育」という一般的な題材を、極限まで狂気とホラーに昇華させた非常に尖った1冊です。


本作は吉村達也のホラー作品としては「文通」「初恋」と並び、今もなお語り継がれる名作のひとつです。


北薗雪夫の赴任で3年A組の空気は一変します。


彼はただの「変人」教師というレベルではなく、学校という閉じられた空間の均衡を崩していきます。 

じわじわと生徒たちに恐怖が広がり、やがてその標的は健気な女子生徒・羽鳥真美子、15歳に向けられることに。 


表面的には規範を護り、教育者として振る舞う北薗先生。だがその裏側には、誰も想像できないような狂気が潜んでいます。


過去の事件を隠そうとする気配もなく、彼自身が「自分の異常さ」を自覚しているかのような言動。


そして、彼に疑いの目を向ける生徒や教師たちも次第に巻き込まれていく……。


感想

「先生」は、吉村達也らしい「ホラーと人間ドラマ」の極限を描いた1冊です。


まず何より、作品冒頭から異様な緊迫感が漂い、中学校に着任した教師がすでに猟奇事件の過去を持つという設定。


これは貴志祐介の『悪の教典』にも通じるものがありますが、本作はそれ以上に「隠蔽しない狂気」「教育現場の崩壊」が徹底しています。


読んでいて感じるのは、「サイコパス物」の域を超えた、純粋な「怪物」的存在として描かれる北薗先生。


一般的なホラー小説とは違い「犯人VS探偵」めいた構造を捨て、読者の目の前で人が壊れていく様を淡々と描く。その冷酷さとリアリティが恐怖を増幅しています。


生徒たちがじわじわと追い詰められていく描写、誰も助けてくれないという絶望、そして“次は誰が標的になるのかわからない”緊張感。


これがとてもリアルで息苦しい。


また、北薗先生というキャラクターの造形も非常に秀逸。不気味な外見だけでなく、「何を考えているのかわからない」という不透明な内面、時に常識人のふりを見せるところなど、読者はずっと「どこかで爆発するのでは」と疑心暗鬼になりながらページをめくることになります。


物語後半では、ホラーから哲学方面へのシフトが感じられる描写も見られます。


恐怖体験の中に「自己との対話」「存在の問い」を忍ばせることで、単なる恐怖体験以上の読後感を残します。「人間とは何か」「善悪とは何か」といった普遍的なテーマがちらりと垣間見える部分は、作者の作家性の強さを感じます。


個人的には、読後「どうしてこんな教師が誕生してしまったのか」という虚しさと、「社会の闇」とでも言うべき不条理さが強く残りました。


中学校という日常の舞台だからこそ、恐怖はより生々しく、読者の現実感覚をチクチクと刺激してきます。


ラストは割と定番のホラー展開に落ち着きますが、そこに至る過程が非常に鮮烈で、息を呑むページが続きます。


吉村達也の作品にしては「どんでん返し」成分がやや薄いという声もあるものの、これはむしろ「人間の壊れ方」「狂気の増殖」にフォーカスしているため。ねじれた倫理観、異常な現場感覚に引き込まれ、なかなか抜け出せない読書体験でした。


今読むと、リアルでもフィクションでも「教師という立場」を題材にした怖い話が溢れている時代ですが、「先生」はその先駆けとしても傑出しています。


日常の安全地帯がいとも簡単に崩壊する恐ろしさ、そしてその元凶が“誰も止められない大人”という救いのなさ。吉村達也の筆致は平易で読みやすく、それゆえに恐怖がじわじわと迫ってくる。


ホラー好きならぜひ一度体験して欲しい作品です。


読むだけで、「自分の学校生活」「自分が信じていた教師像」がぐらつきそうな、そんな生々しい怖さを味わえます。


難しく考えず、一気読みできる分量なので、この真夏の夜にぴったりかも。


読了後は、誰かに「先生って怖いよな……」と語りたくなること請け合いです。