役職につくと自分自身がエラくなったように勘違いする人は少なくないように思う。
役職というのはその組織内に限ったポジションに過ぎない。言うまでもないことだ。
サッカーでいえば、ポジションは、
ゴールを決めるフォワードであったり、
戦いの流れをつくるボランチであったり、
守護神ゴールキーパーであったりするというだけで、
選手とは別に、コーチ、監督、オーナー、
さらには、観客、スポンサーがいる。
ゴールキーパーは、他のポジションに比べてエライかエラクないか?
というのは愚問だろうし、
その人が全人格的に完成されているからゴールキーパーになった、
ということでもないだろう。
家族をないがしろにしたり、地域社会に溶け込まなかったりしている役職者は現にいる。
家族を大切にすることは、人間としてエライかエラクないかのモノサシとは合わないが、
家族を大切にしない人はエラクない、ということはいえそうな気がする。
ポジションが変わると、見える風景も変わってくる。
その情報をチーム内で共有するということも、
・全体、一人ひとり、ムダのない動きになる
・効果のある、効率性のある動きになる
などに意義があることだ。
一方で、みすからは何も動かず、情報が来るのを待っているだけという、
いまどきいわれている「働かないおじさん」も、たしかに存在している。
困るのは、自分は、情報をもらうことが仕事で、当然もらえる立場だという勘違いにより、
・もらった情報を他メンバーと共有しない
・もらった情報に対して判断も行動もしない
・もらった情報の価値を理解していない
ことで、結果、情報流通がそこで止まってしまい、全体の動きも鈍くなる。
一人あたりのGDPも、低くなるわけだ。
任命権者(首相)対会議 = 圧政者VS学問の自由を守ろうとする者
という、とても「わかりやすい」構図にしようとしたらしいが、
文字どおり、墓穴を掘らせるような流れになってしまっている。
10年間政策提言をしていない、しなくてもよい会議メンバーになることを、
名誉と感じている方々がいて、
国費から日当や旅費をもらえていたということが、
天下の明るみに曝されてしまった。
少なくとも今回の「新型コロナ禍」において、学際的な政策提言をすべきであったと思う。
安倍内閣時代の「有識者会議」のときに、会議メンバーは、いったい、何をしていたのか?
「核のゴミの「文献調査」に応じることを検討している」段階で報道し、
危険なものを独断で持ってこようとする首長 VS 良識ある市民
という構図をつくろうとしたマスコミ。
・応募するにしても、議会その他に相談するつもりであること
・文献調査がじかに施設整備につながらないことについて国から確約をとったこと
・北海道知事からも、文献調査から先に進むときは北海道は反対する、
国にその旨伝えた、としたこと
(=文献調査「まで」は見ていますが、その後は進ませんよ、という暗黙の確約をとったこと)
についてはほとんど触れず、
説明会は平行線でした、
他地区の説明会に入れてくれないという住民もいました(その住民は、事前に連絡しておくべき)、
など、対立している「構図」があるのだ、という姿勢を崩さないできた。
理念論を先走らせない、現実に立つ首長のほうが上手であった。
・施設の安全性については分からないので、一緒に勉強していきましょうという姿勢が一貫していた
・全国ニュースになり、地域の存在、産業、特産物、課題が広告費ゼロで宣伝された
・最大20億円の交付金が今後どのように使われるのか、全国の注目を浴びるようになった
その一方で、
・首長宅に火炎を放り込む
・首長宅に脅迫電話をする
・首長宅に脅迫メールを送る
など、昭和時代のテロを思わせるような行為は、いかがなものだろう?
「わかりやすい」対立「構図」をつくって、それに合わせて取材し、絵を撮影し、
それに合うような「有識者」の話を持ってくる。
見え見えの世論操作活動が甚だしい昨今である。
市の新型コロナウィルス対応に関する中間報告が出されたとのこと。
某地元放送局は、これを「自分に甘い」評価だと切り捨てた。
新聞報道では、複数委員から「『外部の関係者も交えて客観的な評価をすべきだった』などの声が出た」という。
自己評価は自己評価として必要なことであり、今後に生かしていけばよい。
資源配分をどうしていったらよいのか?優先順位の低いことがらは何であるのか?などなど。
乳児など自分の意思で行動できない人たち以外の誰もがいまなお当事者である今回新型コロナウィルスの対応を、いったいどのようにして「客観評価」できるというのだろうか?
マスコミは、1~3月には「桜を見る会」問題のほうに力点を置いていた。
雪まつりイベントやインバウンド消費を讃え、帰国時のマスク買い占めの様子を呆れるように報道していたのだ。
一部では、トイレットペーパーが店頭からなくなった映像を、これでもかと繰り返し流していたのだ。
それらのことに対して、いったいどう自己評価するのだろう?
「不要不急の外出は決してしないでください」キャンペーンが、いまや「GoToキャンペーンを使わないと損ですね」と。
当初に、経済が回らなくなることへの課題意識はあったのか?そしてそうした報道を、一度でもしたのであろうか?
いまもって、今後どのようになるか予見可能性がほとんどない状態で、誰の立場でも、コレだという基準はなく、よかった、わるかったといえないのが実情なのではないだろうか。
社会的責任を負わないとしている者ほど正義の味方のつもりで声高に他者にものをいう。
このような傲慢さを、自らを顧みる糧としたい。
絶えず順調な自分こそ自分である、
という制約を持ち込み、
それからはずれることは異常だと考える…
これは厳密にいうと間違いであって、
調子が良いと思う自分も、
調子が悪いと思う自分も、同じ自分であって、
そこには連続性があること(同一性の回復)を
発見すべきなのです。
工藤信夫 援助の心理学
ここと別の本拠地ブログ には、折々に撮った写真を不定期に掲載している。
写真は写真だけでいいのに、わざわざ「タイトル」をつけるのには苦労する。
とはいいつつ実際には、苦労などしたくないので、フィーリングで適当につけているのだが、写真展やなにかに応募するときには本当に苦労する。
脇役のはずのタイトルが、主役である絵のほうを規定してしまうためだ。
さて、上の画像には、なんというタイトルがつくか?
観てくださった方のフィーリングにおまかせしたい、というのがホンネ。
あえて自分でつけるとしたら、「鏡」というタイトルにしよう。
「…え?どうして?これのどこが『鏡』なの?」
いいんです。
もう、なんでもいい。
「犬」でもいいし、「かつ丼」でもいい。「バラの香り」でもいい。
言葉というものの制約から自由になり、
もっといえば、この絵からさえも自由になる、
それがいいんじゃないかな?と思う。
心理学面では、
ブルーナーらの伝統的な「パラグマティック(論理科学的)思考」に対し、
「ナラティブ(物語的)思考」の重要性が近年よく言われてきている。
後者はとりわけ、
ライフ・ストーリーの軸線上で認知や学習をとらえよう、
というような文脈で出てくるが、
ライフ・ストーリーもまた言葉という道具で構成される、
という点に気をつけなければならない。
そして、多くの場合は自己否定的なところからスタートするので、
ライフ・ストーリーの構築にもネガティブな言葉が多く出てくる。
さらに、いまAなのはBだったからだ、
という、原因探り、犯人捜しの論理構築になってしまう。
諸富の「トランス・パーソナル心理学」(1999)では、
それさえも離れて、あらゆる文脈から自由になろう、とする。
こうなると再現可能性からも「自由」になってしまい、
伝統的心理学の範囲内かどうか自分には不明だが、ナラティブ性が、
① 自己肯定の方向に行きにくい
② ひとつの帰属過程にとどまらない、永久連鎖的因果関係探りとなる
③ 安心できるストーリーが一旦構築されたら、それに囚われてしまう
のであれば、ナラティブにこだわることはないのでは?と思う。
まったく同一の写真のタイトルも、
「今日は、なんとなく、『太陽』だなあ」
「うーん。今日は、高カロリー気分の『天丼』に変えよう」
としても、不都合なことはほとんど生じない。むしろオモシロイ。
「撮ったときはこういう気分でこういうアングルにしたからタイトルはコレ」、
というのは、論理的(?)に後付けしたひとつのストーリーに過ぎず、
オモシロイじゃん?という方が、論理で規定したものを超えると思う。
そもそも、世界も、人生も、すべて論理どおりには決してなっていない。
帰属過程のひとつだけをとって考えてみても、
たったひとつの原因がたったひとつの結果を生み出している、
という「一対一対応」など現実にはありえない。
それを言葉をもって論理規定し、その制約が自縄自縛しているとしたら、
なんとももったいない話だなあと思う。
【昨年秋に自分が描いたものへの自己診断】
○全体構成
・各々の要素がひとつの風景としてまとまっている → 調和、安定、統合
・風景を俯瞰している → 自分自身とその世界に対して客観的
○要素
・山(=目標):絵の範囲内 → 到達可能なものを設定している。
・動物(=自分):山から2羽のウサギが駆け降りている
→ 目標への向かい方を把握、ひとりでは達成できないことも理解。
・夕景(=時期):いまは人生の後半にあることを理解している。
・川(=生命力):目標から下流(これから先)に力を広げているが、途中にちょっとした障害。
・道路(=進路):山(目標)に向けて伸びている。そこに2人が歩いて進んでおり、さらに動物が迎えに来ている。
また、川に橋がかけられている → 進路に着実に向かっていることに心安んじている。
しかし2人には顔がない → 目標達成時の具体的な自己イメージが未成熟。
・家(=家庭):窓と玄関が描かれている → 家庭は外に対してオープンである。ご近所づきあいもこなす。
・岩(=障害):家とクルマのそば → 家庭かクルマのことで何か大きな障害か心配事。
・田畑(=仕事):家の近く。大きなスペース。花が咲いている
→ 仕事を家に持って帰りがちだが、家庭とは区別しようとしている(道路で隔離)。
人生で仕事に大きな比重。成果に満足している。
ここでも複数人が登場 → 成果は自分ひとりのものとして認識していない。
家のそばに畑と同じ花 → 仕事を家でこなしているところもある。
まだ咲いていない花の群 → 二毛作的な感覚。
・人(=自分自身):いきいきとしている。活動的。喜び。パートナーあり。
※配置関係
(これは、なんとなくスピリチュアル方面で、学問的エビデンスもみたことがなく、信用してません。
一応、左が過去で右が未来、上が精神で下が本能、というような言われ方がよくされます)
・一番高い目標が左上:精神世界や宗教的な方向が最終目標
・自分を含めた2人の人が右下:愛、スキンシップ、セックスを求めている
<総括>
・冷めていながらも、安定した情緒で、達成可能な目標に向かって着実に進んでいる。
・仕事と家庭とを区分したい気持ちがありながら、家でも仕事をしてしまう。
・仕事とは、自分ひとりではできないこと(パートナーが必要)、成果は独占しないものだと受け止めている。
いろいろな方の絵を実際に見ましたが、みんな違うんだということに、まず新鮮な驚きを感じました。
そんなの当たり前だといってしまえば「コロンブスのタマゴ」ですが、
絵の巧拙から離れても、過去から現在、未来に至る人生観と、抱いている世界観はそれぞれなんだなあ、と。
いうまでもなく、これ単独で判断するのは危険。
「バウムテスト」や「コラージュ」との組み合わせや、
また「内田クレペリン検査」や「エゴグラム」の結果の組み合わせでみるべきでしょう。
(「ロールシャッハ」については、勉強してません)







