秘伝口伝の嘘臭い話しと、古流を現代武道で解釈しようとしても無理が有り本当の意味とは異なり、何も功を無しません!
真摯な態度で、一度他の経験や近代武道で得た事を基本は全て捨てて(完全に捨てろとは中々難しいので、傍に置くとか、出来る限りしまっておいてその場では出さない使わない努力を意味してます)から、他山の山はその登り方を一から素直に学びましょう!
現代に伝わる事ではよくある事ですが、そもそもはそんな話や言葉は創始者は使って居なかったと言う事が多々有ります。
これは宗教などを見れば良く分かる話です。設立者が話した言葉や、例え話を、悪気無く勝手に尾鰭を付けたり、それがあたかも真実を話している様に伝える事です。例え話しの場合はその相手を見て師匠が、子供なら子供、初心者なら初心者、中級者なら中級者に合わせた話や理論を述べるはずです。なので全て嘘では有りません、しかしまだ発展途上者にはこの訓練が良いとか、青年ならこの辺りをしっかりと鍛えるべきであるとかは加減して指導するでしょう。尾鰭を付けるのも、目の前の者に対してレベルやその他諸々を鑑みて例えば翻訳は全く同じ語彙が無い事も有るので近いニュアンスをならば立てる事になります。そう言う部分はどうしても人を介在すると仕方無き所は有ります。
ですのでどの時点、どの話も嘘とは言えません。
ですが自分を過信して上のレベルのアドバイスを聞いても絵に書いた餅の様に役に立ちません、逆にいつまでも子供向けの話や初心者向けの逸話を金科玉条の秘伝と勘違いして進歩無しも困りものでしょう。己れの分をわきまえながらが要ります。基本的には常に謙虚で有り、素直な気持ちです。しかし上面の子供向けの言葉をそのまま鵜呑みにするのとも違います。
ここで後から学ぶ者や、間に複数名が入った世代を超えた場合はこの様な事も加味するのが妥当な考えでは無いかと思います。これは初心者用、中級者用、上級者用は分けて指導している。または真の事は簡略化して残して、実際の秘伝口伝の部分はそれが理解出来るレベルまで教えないか、そのレベルにくれば実は既に話としては伝えて居た事が理解出来る工夫を入れて居たと言う事です。
これは古流と呼ばれる武道は概ねこの傾向があると見るのが妥当でしょう。
私的でたわいないレベルなのですが、逆に言えば私ごときレベルでも、先生方や先輩の話の中で頭で理解していた事が感覚や体で分かった時、アッこれが教えようとされていた事か!と言う経験が有ります。中心線、これが理解出来た後に自得したと言うか言葉の説明では無かったが平行線の高さの意味が理解出来た時もコレが力の出る位置なのだと、感激した経験が有ります。また、抑えられた力を流すと言う意味も物理的な説明は頭で分かっていましたが本当に他者に抑えられてそれを手の上で流す感覚を得た時も、コレが力の流れかと体で理解した時が有ります。力の出し方も屈筋で無く伸筋の意味も体が、アッこれがと言う時が有りました。この様に既に私も頭で理解していたつもりの事が本当に体感で出来た時や、一度出来たつもりがより深く感覚的にわかった時が何度も繰り返されました。合気の理合に関しても何度もコレか!と言う事が繰り返し稽古続けていると理解されていきます。コレらはその言われたパーツで技術を直接に磨こうとしても不可能に近く、一見その技術とは無縁の部分の強化や稽古法をある期間継続して行わないと会得に遠道でした。古流の不思議な要素です。逆に言えば秘伝を言葉で聞いたり、口伝はこう言う事だよと説明を幾らしても、その受ける側がそのレベルに到達していなければ絶対に会得は出来ません、いわゆる頭の良いところ世間で言われる者ほどこの状況にはまり込みやすく、頭での理解や理屈の記憶では最も大事な芯の部分が欠落する可能性が高いです。ただ、弟子中に体得が遠く、一隅を照らしても他の隅が全く見えていない弟子ばかりだと、せめてもの言葉や文章でも残したくなるのが人情かも知れません。頭の良い弟子達は言葉では後世に秘伝を継承出来る可能性を残します。弟子達の会得に諦めていると、逆に万年初段とか、後発の者から芯を見つけ出し会得してくる者が現れたらします、それは稽古法の中から大事な要素のみを見つけ出し、力尽くでない目先の勝負の為の力を削いでいく事で近づくいていく事が可能になるかも知れません。
近代スポーツと古流の優劣を論ずるのでは無く、別次元の分野である事を前提としないとこれらの話も理解出来難いでしょう。近代スポーツ出身者の場合、多くは近代スポーツ論理の上で理解したがりますし、元は同じ武道なのだ論でひとまとめにしたがりますし、実際に高名な近代スポーツ大会では近代スポーツ論理の選手が強いと言う根拠で話したがります。比較部分がかけ離れてます。現代の、正々堂々やスポーツマンシップと生死かけたかけひきとほ別次元なのは明白です。どちらが強いはかなり幼稚な理屈です。時代変われば卑怯者の意味も異なり小の兵法には何でも有りで隠し武器も当たり前ですから。
現代スポーツマンは自分達の過去の功績や努力などを台無しにする訳にはいかないのが普通の精神でふから、古流においての自分が素人、初心者を認めたく無いのでしょう。まったく別物の別次元分野と考えれば、摩訶不思議や自分達の論理外でも素直に受け止められる様になるでしょう。
筋力、反射神経、動体視力、などの要素はさておかないと理解困難な要素が古流の世界では満載です。逆に近代スポーツの能力アップに近いの訓練法は古流にもある様です。道具の違いなどですがそこに人の体の不思議さと鍛え方の知恵が残っています。
その辺りを良い意味で信じて一から素直に学べば何か違う世界が見える可能性が高まります。邪教な宗教の盲信とかはまた異なる話です。古流には人の持つ潜在能力を高めようとする様々な工夫が含まれており、それは場合により超人を生み出したりする可能性も有りますが、中華で派生していた体の可変を作り武器化しての考え方とはかなり違うと思われます。中にはこの様に体を超人的に鍛えれば良いと言う方向の発展の流派もある様ですが、概ね日本の武道、武家は体を全体的に高め、精神を神道、仏教の修行とからめて、その中の発展は含んでいる様ですがあくまで心技体を適宜に高める方向性が多い様です。
日本武道に含まれている、空手はその歴史派生からすると明らかに中華の南拳系統からの輸入が沖縄の歴史、政治、文化に影響されて独自の形に成立したと考えるのが妥当かと思われます。敵対する者の武器は日本人の武器で有り、青龍刀や棍などでは無く、似た要素で変化しているのだと見えます。そこには琉球文化の思想も当然入り独自発展しているでしょう。体の可変を伴う鍛え方は中華思想と沖縄思想の両方と考えるべきかと思われます。ですので日本武道の剣、槍、などとは一線を画して当然ですが中華そのものでも無いでしょう。
嘘の口伝、秘伝は根拠を調べたり、その言葉の意味がどのレベルでの話か、効果は本当は何かを研究してみましょう。現代人には自分に箔を付けたいが為に、出鱈目な秘伝、自分が実は真の後継者です、などとうそぶく者が多数居ます。せめてその流派の何かの技術を正確に伝えられているか、研究含めて伝承されているかを見ましょう。
それぞれの国に伝わる物は、やはりそれぞれの国に独特の文化が深く絡みながら影響している物です。日本の物は日本人の習慣や思想も共に理解して初めて会得に近づきます。似た他国の技術を導入しても所存似非物でしょう。
中国系の武道に日本武道の真の理合や技術は存在しません。逆もまた真なりです。