ある日の学校帰り、「こんなに美しい花があるんだ」。少年は赤いバラを見て感動した。そして15才の日に、赤いバラの編まれたセーター見た時に、ああ、こ の仕事がしたいと思うのだった。母に頼みこみ、母は店の主人に頭を下げて奉公させて貰う事が出来た。仕事は子守から始まった。

 5年後の昭和30年正月、二十になった少年は、念願だった自分の店を持ち、独立する。名島の商店街の一角である。小さな店だがオーダーニット専門の店とした。後の福岡ニットの前身である。



 成人になった少年の名は、圓藤泰久(えんどう・やすひさ、昭和9年3月14日生れ)。お客さまのどんな要望にも応えようと身を粉にして働き、新しい技術 の研究にも取り組む。時代の変化と共にオーダーニットからプレタへと転換し、既製品の大量生産を始めることにした。この数年前から手編み機が発売され、各 地に編み物教室が出来、人気となっていた。

 昭和47年、同業者から法人・株式会社を買わないかと持ちかけられ、買収。筑紫野市に移転する。仕事は波に乗った。この年の暮れには韓国で生産を開始す る。昭和53年には中国へ進出。100%出資の工場を設立する(この過程は並大抵ではなかったがここでは省略する)。操業開始の式典に出席した友人の矢頭 宣男(故人・やずや創業者)は、

「スゴイよ、圓藤さんは。200人以上の若い従業員を抱えて編み物を創るのだからなぁ。式典には門の前から工場まで真っ赤な絨毯が敷かれ、それは、それは大歓迎を受けるのだから。共産党書記に市長も出て来るのだからなあ」と、感激の目の輝きで話すのだった。



 毎年正月5日に開かれる「福岡ニット経営計画発表会」で、圓藤は、

「中国は私たち日本が大変な迷惑をかけた国です。少しでも我が日本を理解され、友好が築かれることを願ってのことです。中国で儲けたお金は中国で使います。日本には持って帰りません」と笑って挨拶した。

 しかし、その圓藤も順風満帆ではなかった。

 昭和59年はどん底の苦境あった。下請けからの脱皮を図ったことが裏目に出たのだった。同時に異業種にも出て失敗したことも重なった。わずかに1年で生 命保険を掛け自殺を考えるまでになっていた。が、あの創業の時を想いだすことが出来たことは幸いだった。あの若い頃の希望、苦難を乗り越えてきたのだか ら、と。そしてモノ造りは廃れることはない。昔から衣食住といわれているではないか、と。

 二っトは無くならないのだから、そう考え直し、原点に立ち戻ることが出来た。毎日、銀行との交渉に当たる。これまで取引のなかった銀行の担当者が圓藤の情熱と目標を理解してくれた。

 人間、正直に真面目に一本の道を歩むことは、お天道様は見捨てない。これが念ずれば花ひらくということか、我が行く道はこの道しかない、と改めて決意するのだった。平成4年、新社屋落成。同時に中国工場を着工させる。

 平成6年、60歳になった圓藤はある決意をする。

 パートナーとして就いて来た小林敏郎夫妻に後進を譲ることにした。小林夫妻は共に夫は営業担当として、妻は経理・総務として、猪突猛進する圓藤を補佐して来たのだった。圓藤には二人への感謝の意味も含め経営のバトンを手渡した。

 会長となった圓藤には若い頃からの夢があった。編み物の故郷ヨーロッパを訪ね歩くことだった。1年をかけての視察と研究と遊びを兼ねた旅へと立つ。このことは小林夫妻への経営者としての自覚を促す時間ともなる。旅先から一通のハガキが届く。

「ただ今イギリスです。世界は広いです。人間はちっぽけです。それでは、また」と文字が躍っている。

 男・75歳、まだまだ、青春の日々である。