ヨコハマといえば、港町、という答えは今も昔も同じですが、
同じ港でも、昔と今とでは随分と変わりました。
昔の横浜といえば、関内を中心として海側の商業・行政地区と
山側の伊勢佐木町の歓楽街が一大都市を作っていましたけれ
ども、国際貨物輸送の主役が船から航空機に移り、貨物船舶の
大型化によって貨物船の接岸が本牧に移動し、横浜駅から桜木
町駅にかけての海側に広がっていた貨物操車場も再開発されて、
今は「みなとみらい」とひらがなになりました。
しかし、一極集中で繁栄していた都市機能が分散していくと、
市場拡大のペースが分散量を凌駕しない限り、都市は衰退に向
かいます。この点からすると、横浜は繁栄のピークを越えた町
といえるかもしれません。
その繁栄のピークは1989年でしょう。日本全体がバブルで
踊っていた陰に隠れてしまいがちですけれども、桜木町駅前で
横浜博覧会が成功裏に開催されたのがピークであり、先日の開
港150周年記念イベントとの比較で明らかといえそうです。
その横浜のピークだった横浜博で、ようやく一般市民に公開さ
れたのが臨港貨物線。いわゆる汽車道です。似た名前の馬車道
も近いですが違います。

かつて、横浜駅から南に下った高島にあった横浜機関区を中心
として、各埠頭に向かって敷かれた専用線とその先の本牧へ向
かって敷かれた線路で、山下公園の上に高架橋が架かって貨物
列車が走っていたのを憶えていらっしゃるでしょう。横浜博の
ときには、ディーゼルカーが走って私も乗車した記憶がありま
す。
先日、馬車道の先に行き汽車道を歩く機会がありました。歩い
てみて改めて複線だったことに気づき、昔の写真をみて確認し
ました。そうだったかと。
その昔、蒸気機関車が貨物列車の前に立っていた頃には、専用
線の終点は埠頭になるわけですから、末端で方向転換ができず
に推進運転だったのだろうかと疑問に思います。
貨物列車というのは、牽引定数によって数十両の長編成になり
ますので、それで安全運行は確保できるのか?と。
そんな疑問を抱く人も、いまや私だけでしょう。
プロムナードとして親しまれている現在の汽車道では、そんな
歴史を静かに証すかのように、短く繋がれた二条のレールが顔を
覗かせています。
感謝!
同じ港でも、昔と今とでは随分と変わりました。
昔の横浜といえば、関内を中心として海側の商業・行政地区と
山側の伊勢佐木町の歓楽街が一大都市を作っていましたけれ
ども、国際貨物輸送の主役が船から航空機に移り、貨物船舶の
大型化によって貨物船の接岸が本牧に移動し、横浜駅から桜木
町駅にかけての海側に広がっていた貨物操車場も再開発されて、
今は「みなとみらい」とひらがなになりました。
しかし、一極集中で繁栄していた都市機能が分散していくと、
市場拡大のペースが分散量を凌駕しない限り、都市は衰退に向
かいます。この点からすると、横浜は繁栄のピークを越えた町
といえるかもしれません。
その繁栄のピークは1989年でしょう。日本全体がバブルで
踊っていた陰に隠れてしまいがちですけれども、桜木町駅前で
横浜博覧会が成功裏に開催されたのがピークであり、先日の開
港150周年記念イベントとの比較で明らかといえそうです。
その横浜のピークだった横浜博で、ようやく一般市民に公開さ
れたのが臨港貨物線。いわゆる汽車道です。似た名前の馬車道
も近いですが違います。

かつて、横浜駅から南に下った高島にあった横浜機関区を中心
として、各埠頭に向かって敷かれた専用線とその先の本牧へ向
かって敷かれた線路で、山下公園の上に高架橋が架かって貨物
列車が走っていたのを憶えていらっしゃるでしょう。横浜博の
ときには、ディーゼルカーが走って私も乗車した記憶がありま
す。
先日、馬車道の先に行き汽車道を歩く機会がありました。歩い
てみて改めて複線だったことに気づき、昔の写真をみて確認し
ました。そうだったかと。
その昔、蒸気機関車が貨物列車の前に立っていた頃には、専用
線の終点は埠頭になるわけですから、末端で方向転換ができず
に推進運転だったのだろうかと疑問に思います。
貨物列車というのは、牽引定数によって数十両の長編成になり
ますので、それで安全運行は確保できるのか?と。
そんな疑問を抱く人も、いまや私だけでしょう。
プロムナードとして親しまれている現在の汽車道では、そんな
歴史を静かに証すかのように、短く繋がれた二条のレールが顔を
覗かせています。
感謝!