道を歩いていて交差点の赤信号で止まっていたら、いい雰囲気の
クルマが通り過ぎていきました。プジョーの406クーペです。
プジョーの406というクルマは、映画「TAXi」でも有名な
ミドルサルーンで、日本では小洒落たフランスのクルマという印
象ですが、母国ではごく普通の一般的なセダンというポジション
のクルマです。
しかし、プジョー・シトロエンは何を思ったのか、中庸セダンの
クーペヴァージョンをピニンファリーナへ投げ、デイトナならぬ
456似の異次元の作品が生まれてしまった奇跡が、この406
クーペです。
交差点を通り過ぎていく406クーペには、走っていながらも「佇
まい」というものがありました。
それは、細やかな職人芸が結実したものだけが持つ、細部に神々が
宿っている生命体のようでもありました。
もうすぐ記憶の彼方に消えいくクルマですが、もし可能であるなら
伊勢佐木町や中華街、本牧あたりを走る覆面パトカーとして銀幕に
採用されないかな、なんて思います。
感謝!
クルマが通り過ぎていきました。プジョーの406クーペです。
プジョーの406というクルマは、映画「TAXi」でも有名な
ミドルサルーンで、日本では小洒落たフランスのクルマという印
象ですが、母国ではごく普通の一般的なセダンというポジション
のクルマです。
しかし、プジョー・シトロエンは何を思ったのか、中庸セダンの
クーペヴァージョンをピニンファリーナへ投げ、デイトナならぬ
456似の異次元の作品が生まれてしまった奇跡が、この406
クーペです。
セダンの方は映画で白いボディでも見ていただくとして、クーペ
の方は、カラフルなメタリックカラーがよく似合う、立ち振る舞
いを知る大人のためのパーソナル・クーペとして登場。
冠婚葬祭からヴァカンスまでこなす素敵なライフスタイルのお供
として世に問われました。
そういう立ち位置ですからベースシャシーはセダンと共用。一見
リアのコンビネーションランプも共用に似せて、じつは専用設計
などというところは、アルファロメオ164のQ4を彷彿とさせ
ます。
専用ボディでセダンとは一線を画しつつも、どこかセダンの雰囲
気を残し、どこから見てもセダンとは別のクルマでありながら、
見えないところを透視すればセダンと同じクルマ。
こういうものを捉えて何と表現したらいいのでしょう。それが、
このクルマの全てでした。
平凡なセダンのクーペが”大人のためのパーソナル・クーペ”と
して登場。しかし、人々の意識のなかに”平凡なセダンのクーペ
ヴァージョン”で毎週末にパーティへ出掛けるというイメージは
ありません。その結果、販売台数は伸び悩みます。
”中庸なクルマ”のイメージを払拭したいメーカは、エクステリ
アデザインの一新を決断。ネコ顔というかワニ口というか、同じ
ラテン系のアヴァンギャルドなルックスで攻めに出ました。
すると、穏やかな大人のクルマは居所を脅かされ、マイナーチェ
ンジでワニ口バンパーに仕様変更。このクルマの美点であった細
やかな心配りは輝きを見せなくなりました。
その細やかな心配りとは、明度深く彩度高いカラフルなペイント
に、ほど細かいアルミの粉を混ぜた特製メタリックカラー。
2色の別体パーツを組んで作られたホイルキャップ。
405の頃よりも風合いと耐久性を両立させた本皮シート。
キャビン内のアクセントとなりインテリアを落ち着かせるウッド
パネル。
そう、このクルマは「プジョーの406クーペ」ではなく「ピニン
ファリーナのプジョー・クーペ」という作品だったのです。
それがこのクルマの真実であり、善良と失敗が同居する郷愁の美し
さを持つのと同時に、人の手によってボディが作られたプジョー
最後のクルマでもあったのです。
交差点を通り過ぎていく406クーペには、走っていながらも「佇
まい」というものがありました。
それは、細やかな職人芸が結実したものだけが持つ、細部に神々が
宿っている生命体のようでもありました。
もうすぐ記憶の彼方に消えいくクルマですが、もし可能であるなら
伊勢佐木町や中華街、本牧あたりを走る覆面パトカーとして銀幕に
採用されないかな、なんて思います。
感謝!