毎年正月5日に開かれる「福岡ニット経営計画発表会」で、圓藤は、

「中国は私たち日本が大変な迷惑をかけた国です。少しでも我が日本を理解され、友好が築かれることを願ってのことです。中国で儲けたお金は中国で使います。日本には持って帰りません」と笑って挨拶した。

 しかし、その圓藤も順風満帆ではなかった。

 昭和59年はどん底の苦境あった。下請けからの脱皮を図ったことが裏目に出たのだった。同時に異業種にも出て失敗したことも重なった。わずかに1年で生 命保険を掛け自殺を考えるまでになっていた。が、あの創業の時を想いだすことが出来たことは幸いだった。あの若い頃の希望、苦難を乗り越えてきたのだか ら、と。そしてモノ造りは廃れることはない。昔から衣食住といわれているではないか、と。

 二っトは無くならないのだから、そう考え直し、原点に立ち戻ることが出来た。毎日、銀行との交渉に当たる。これまで取引のなかった銀行の担当者が圓藤の情熱と目標を理解してくれた。

 人間、正直に真面目に一本の道を歩むことは、お天道様は見捨てない。これが念ずれば花ひらくということか、我が行く道はこの道しかない、と改めて決意するのだった。平成4年、新社屋落成。同時に中国工場を着工させる。

 平成6年、60歳になった圓藤はある決意をする。

 パートナーとして就いて来た小林敏郎夫妻に後進を譲ることにした。小林夫妻は共に夫は営業担当として、妻は経理・総務として、猪突猛進する圓藤を補佐して来たのだった。圓藤には二人への感謝の意味も含め経営のバトンを手渡した。

 会長となった圓藤には若い頃からの夢があった。編み物の故郷ヨーロッパを訪ね歩くことだった。1年をかけての視察と研究と遊びを兼ねた旅へと立つ。このことは小林夫妻への経営者としての自覚を促す時間ともなる。旅先から一通のハガキが届く。

「ただ今イギリスです。世界は広いです。人間はちっぽけです。それでは、また」と文字が躍っている。

 男・75歳、まだまだ、青春の日々である。」

福岡ニット・圓藤泰久

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