📘 『ボホール放浪記』
第二話 息を止める方法
「息を止めるっていうのは、
我慢することじゃないんだ。
しばらく忘れることさ。
自分が誰なのか、どこにいるのか、なぜここにいるのかを。」
✒️ あらすじ
夜明け前の港で再び出会ったマチャとエロイ。
海の中で「息を止める」練習をしながら、
ふたりの距離は少しずつ縮まっていく。
何かを忘れたい男と、
何かを学びたい少年。
その日の海は、言葉のない会話を静かに包み込んだ。
📖 本文(物語部分)
翌朝早く、
マチャはいつもより少し早く港に出ていた。
海は相変わらず静かだったが、
その静けさが、今日はどこかよそよそしく感じられた。
深い青の空の下、
波は穏やかにきらめいていた。
そのとき、エロイが再び現れた。
今回はバケツを手にしていた。
濡れた半ズボン、裸足、
昨日と同じシャツ姿。
その姿はマチャに、
かすかに思い出される幼い息子のように映った。
「今日は船に水がたまってませんね」
エロイが船の下を覗き込んだ。
「昨日、お前が汲み出したからな。
波が気を利かせたんだよ」
「気を利かせる?」
「魚たちも、たまには静かに見守ってるんだ」
少年はその意味を完全には理解できなかったが、
マチャの顔をじっと見つめた。
そして、何かを思い出したようにそっと尋ねた。
「兄ちゃん、息長く止められる?」
「フリーダイバーってのは、息で海を歩くんだ」
「じゃあ、教えて。息の止め方」
マチャはうなずいた。
ふたりはアロニャの浅瀬へと向かった。
まだ観光客が来る前の、静かで穏やかな時間だった。
海の中は、物言わず、
澄んでいて深く、ときに寂しいほど遥かだった。
エロイはマチャの教えどおりに、
ゆっくり息を止めて、身体を沈めていった。
最初は目を開けて怖がっていたが、
二度目は少し長く、
三度目には海底に手をつけた。
水から顔を出したエロイが、にこっと笑った。
「何秒だった?」
「12秒だ」
「うわっ、すごく長く止めた!」
マチャも思わず笑みがこぼれた。
そんな瞬間は、かつてにもあったような気がした。
誰かに
教え、笑い、待つ――そんな時間たち。
「兄ちゃんは? どのくらい止められる?」
マチャは黙って深く息を吸い込んだ。
そして静かに海へと身体を沈めた。
エロイの瞳が輝きながら、
その様子をじっと見守った。
20秒、30秒、40秒…
少年が数を数える間、
マチャは海底の砂の上に膝をついて座っていた。
一匹のカメが、ゆっくりと彼のそばを通り過ぎた。
水の中の静けさは、
まるで心の中の静けさとよく似ていた。
水面に顔を出したマチャは、目を閉じた。
「兄ちゃん、すっごい!
ほとんど1分だったよ!」
マチャはゆっくり息を吐きながら言った。
「息を止めるってのは、我慢じゃない。
ちょっと忘れることさ。
自分が誰なのか、どこにいるのか、なぜここにいるのかを」
少年はすべてを理解したわけではなかったが、
こくりとうなずいた。
その言葉はまるで、
古い詩の一節のように心に残った。
その日の午後、
ナパリングツアーに数人の客がやってきた。
マチャはエロイを助手として連れて行った。
少年は緊張していたが、水中では誰よりも自然体だった。
客のひとりの女性が尋ねた。
「息子さんですか?」
マチャは答えず、ただ薄く微笑んだ。
エロイは少し戸惑ったが、
そっとマチャの隣に立った。
「息子じゃないよ。
ただの……“水の子ども”さ」
そうマチャは言った。
そして空を見上げた。
雲の間から柔らかな光が差し込んでいた。
ずっと忘れていたと思っていた何かが、
胸の奥で、そっと呼吸をはじめた。
