亡き母の通知表 | 私らしく生きる、と決めた

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今までは人の願いを叶える場作りをしていましたが

私の願いを叶えていく事を優先していこうと
決めました

新しい私の始まりです

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宝塚 夢叶わくわくコーディネーター
 
田山政子が、あなたの夢を応援します。
 

 


この事を書こうか悩みながら・・・

 

 

~6月のとある日~ 

 

 

今は亡き母親の弟が、畑で採れた玉ねぎを届けに来てくれた。

 

いつもの光景だった。 「こんなにたくさんありがとう!!」そういうと

お兄ちゃん(叔父)が私に封筒を差し出した・・・。

 

 

「これ、お前の母ちゃんの通知表。父ちゃんに渡しても意味ないやろうから

よっしんに(私のあだ名)渡しておくわな」

 

 

 

受け取った瞬間(えあせるあせる)  母親と確執があったのであまりにも喜ばしくない物でした。

 

 

受け取ったけど、一生見なくてもいいやてへぺろビックリマーク と一旦脇に置いた。

 

 

 

しばらくして、(さっとだけ目を通すかゲラゲラ)そう思って封筒から出してみた。

 

 

そこには、小学校~中学校の通知表が全て入っていた。

 

 

 

 

開けた瞬間、母の性格が一瞬で垣間見えたびっくり

 

 

 

そう、母親は人とは交われないほど、自分の言いたい事が言えないくらい

内気な性格だった・・・。そして成績も良くなかった・・・。

 

 

 

昔の先生の通知表のメッセージは、あまりにも辛辣な言葉ばかりが並んでいた

親になった気持ちで、ひとつずつ丁寧に読んでいた。

 

母なりに一生懸命頑張っても、その当時の時代背景と家庭の事情から

置かれている環境が想像できた・・・

 

 

母からうっすら聞かされていたが、確信に変わった瞬間、涙があふれて止まらなかった

そして、ショックが大きかった

 

 

そばに居た子供たちも心配してくれたえーん

 

 

人と交流が出来ない母は朝早くから工場で働いていた

 

 

 

 

 

両親は、一軒家を買うために共働きをしていました

 

 

 

そう、生まれた時から週末だけ、両親が迎えに来て

平日は母の実家にずっと預けられていました。

 

 

 

祖母は親戚も多く、法事で集まる家でしたので

親戚の人達に沢山かわいがってもらいました。

 

 

母は6人兄弟の長女でしたので、進学の事など色々苦労も多かったようです

その母の兄弟と、5歳になるくらいまで一緒に過ごしていましたし

おばあちゃん子になっていましたウシシ

 

 

おばあちゃんが大好きで、大好きで

畑のお手伝いに行ったり、回覧板を持っていくときについて行ったり・・・。

 

両親が迎えにくると、帰りたくないとダダをこねて、みかねた祖父が、お土産にビスコを

持たせてくれました、今でも覚えています。

 

帰った夜中に「おばあちゃん家に帰りたいようえーん汗」って

本気で泣いていました。

 

 

また月曜日になると、5時に起こされて、眠い目をこすりながら寒い時も

暑い時も遠く離れた祖母の家に預けられていました

 

 

大勢の家族の中で育ちました。

 

 

 

だから人が好きなのです。

兄弟も時折中が悪かったですが

 

 

いつも間に入って代弁していました

この頃から、人と人との間に立って、揉め事に発展しないための

橋渡し役を体得していました(笑)面白いですよね~てへぺろ

 

 

 

皆それぞれに、いいもの(個性)を持っているのに

仲良くできたら楽しいのにな~照れなんていつも思っていました。

皆とうまく付き合う平和主義なので、マジ嫌われます(笑)ぼけー最近は気にしていません音譜

 

 

 

当時の母親からしたら、私のそういう社交性がある部分が

自分には無いもの、自由奔放な性格だったので

愛情表現が出来なかった母親はやがて「虐待」へとエスカレートしていきます。

 

 

死ぬ直前まで「お前の顔なんて見たくないわ、来てくれって頼んでない。もうこんといてなムキー

 

 

 

 

ずっとわだかまりがあったまま、下の娘を出産し、ようやく病室に戻ってこれたので

病室の電話を使って、性別を告げる事なく、「うまれたよ」の報告だけ 

 

 

娘の退院の日にすでに倒れて意識不明になりそのまま亡くなりました・・。

 

 

 

その当時、神様って本当にひどいなって思いました。

 

 

 

母親の愛情を受け取る事が出来ず

なんで、私は生まれて来たんだろう、この世に必要とされているとも思えない

居場所もないし、私は喜怒哀楽を感じてこの世で生きているんだろう・・・。

 

 

 

12年の時が経ち、今回のタイミングで受け取った通知表

 

 

 

 

 

その内容を見たときに、母の全てを許す事が出来ました。

 

 

「母の子供ではなく、母が私の子供だったら・・・」

 

 

 

 

抱きしめて、「何か他にやりたい事があったら、それやってみよかお母さん、応援するでゲラゲラ

 

 

 

 

 

相手の話をちゃんと最後まで聞いてあげてたし、可能性を奪う事はしない。

 

 

 

 

母の時代背景で苦しんでいた事

人とのコミュニケーションが思うようにできなかった事

自分の容姿や学歴にもコンプレックス

ずっとネガティブ、周りのせい、人の悪口しか聞いたことが無かった事

人と関わる事、出かける事をある時期を境に全く止めてしまった事

 

 

一般的な母親像とは、我が家はかけ離れていました。

そんな母でしたが、自分の事は後回しにして、学費はお金を工面して出してくれました

その想いにはとても感謝しています。

 

 

 

 

通知表をこのタイミングで受け取り、今になってですが

母親の辛かった思いを知る事が出来ました。

 

私はそれを知って、これからどうしていきたいのか?

じっくり自分と向き合って明確になりました

 

 

そう、色んな事情があって、自分を出せない環境に居た人、やりたい事があっても

自信が持てずに、フタをしてしまっている人・・・。 今さら始めた所でと本当は変わりたいのに

あきらめてしまっている人

 

 

その人達のために、私が出来る事

 

 

魅力を引き出すお手伝いをさせていただく事です。

 

 

 

どんな状況、環境であっても絶対に諦めてはいけませんビックリマーク

自分が生き生きと輝ける夢を沢山持って「私はこんな好きな事をして生きる!!

それが正解だと思うし、明日を生きる活力になります

 

 

母親を通じて、「人を想う心」という大切な事に気付かせてもらいました

 

 

私にしか出来ない事を、あなたのためにドンドン生かしていきたいと思っています!!

 

 

 

 

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