親のことで苦しみ、絶望にくれる子供を、そこから救ってやれるかどうか。



それは、これまでも書いてきたことと同様に、政治の仕事である。



部落の人など、社会的に救済を必要とする人々にたいし、政治家や地域のボランティアの人々が活動してきたことと同じようなことである。



そして、昨今の社会的気運にともなって、こういった子供たちを真に救済しようと試みている。


であって、そこにはこれまでにないような危険な状況が派生し、これまでそういったことに親切心でたずさわってきていた人々には、関わることのできないような事態になる可能性がある。




つまり、これまでこういった子供の面倒をみてきていた大人たちのことであるけれど、これまでは、面倒をみつつも、腹が立つことも多く、子供たちを親のことでつい追い込んでしまったり、子供に当たったりしてしまっていたという状況が、もう許されないということである。



そういったことを、こういう子供たちについしてしまう大人は、もう関わってはいけない、ということである。



こういった子供たちが、大人を信頼し、尊敬し、大人に心を開き、自分の将来に希望を持てるようにしなくてはいけない。



こういった子供たちが、そうなれるようにしてやれる大人しか、周囲にいてはいけない。




そうしてやれない大人は、関わってはいけない、関わることは社会的気運として、許されない状況になってきたということである。





こういった子供の親は、とかく複雑なしがらみの中で生きており、そこに子供は必ず巻き込まれている。



ただでさえ、そういった状況であるから、そこに無関係である大人が、さらに子供たちに関わって子供を別の方向から追い込むなどというようなことは、子供をテロや犯罪という方向に向けていく要素になっていることは否定できない。



こういった子供を救うということは、親のしがらみから解放させてやるということである。



そのためには、子供たちがいったいどんなしがらみに巻き込まれ、どんな状況に置かれているのかを知る必要があり、そのために、子供自身が心を開けるような環境を周囲に作らなくてはいけない。




こういった子供にたいして、そういうことをおこなうというのは、大変に難しいことである。



なにげない一言が、子供を追い込み、絶望の淵に追いやるんである。




親のことを口にしなければいいのか、というと、そういうことではなく、なにが子供のしがらみになっているのかわからない以上、子供がいったいどの言葉に反応し、深く傷つくのかもわからない。



であるし、子供のしがらみを知るために、子供が反応する出来事について子供にぶつけることもしなくてはいけない。



万一、子供を傷つけてしまったら、すぐにそれをフォローできる度量がなくてはできないことである。





という具合に、大変に難しいことであるので、親切心や偽善で、できるような活動ではないんである。




ただ、子供の言動に腹を立てず、親のことを口にしない、といったことではない。




ということである。




こういった子供に無意味に関わり、傷つけてしまった大人は、少なからずそのペナルティは自分に返ってくる。


そのことも危惧するので、無理な人は、関わらないでほしいと思うだけである。