望まれない子供が社会から排除され、下賎の一部の世界で生きているという事実。


このことを前提として考えたとき、社会でおこっている犯罪や揉め事の多くは理解ができると思われる。




そして、そういう風に生きている子供が、自分を産んだ母親を少なからず憎むという事実。


それによって、母と子のあいだに諍いが生じ、それがますます問題を複雑にしているということ。




つまり、これらの問題に介入していこうとしたとき、もっとも本質的に取り組むべきことは、母親と子供との関係性についてである。



そもそも、母親に愛されて育った子供が、世の中で犯罪を起こしたり、不幸に生きているとは思えない。


母親という、子供がもっとも愛を欲する相手から、その愛を受けられずに育ったということが、人として大きななにかを欠落させているんであろうと思われる。




周囲の誰もが自分を否定し、望んでいなくても、自分を産んだ母親だけは、自分を愛し、望んでくれている。


これだけで、子供は決して不幸ではない。




が、多くは、子供を産んだ母親自身も、同じように自分の子供を否定し、疎んでいる。


このことが、もっともこういった問題の根幹をなしていることである。





つまり、こういった子供が、社会のなかで犯罪や問題を起こさずに、まっとうに生きていくにはどうすればいいのか、という話であるけれど、では、子供のことを母親として愛してやるように母親を説得すればいいのか、という話かといえば、そういうことでもないんである。



それは、つまりは、子供をこの世に生み出した根本的な責任は、その子供を産んだ母親にあるということなんである。



どんな子供に産まれるかは、やはりその子供をお腹の中で育てている母親による。



いい子供を産める女性と、そういう子供が産めない女性と、そういう風であることは否定できない。



そして、周囲から望まれず、疎まれるような子供を産んだ女性は、やっぱりそういう子供を産んでしまう人なんである。


であって、そういう子供を産んだ責任を、少なからずつきつけられるということである。





そして、そういう子供を産んだ責任を、母親はいったいどういう風にとればいいのか、という話である。



そういう子供を産んでしまった責任として、子供と一緒に心中すればいいのか。


子供を殺して自分も死ねば、それで責任がとれたことになるのか。




つまり、こういった問題の根幹は、母親がいったいどう責任をとればいいのか、ということなんである。



であって、自分の産んだ子供を愛せと言っているわけではなく、そういう風に母親を説得したりすることは、大きな間違いである。



周囲から望まれず、疎まれる子供を産んでしまった責任を、母親はいったいどうやってとればいいのか。



それは、本当に母親だけの責任なのか?




が、最終的には産んだ女性の責任なんである。




それは、どんな極悪な血が流れている男の子供であっても、いい子供を産める女性が産めば、大変にいい子供が産まれてくるからである。