社会的マイノリティとは、いったいどういう人々か。



たとえば、同性愛者であるとか、原爆の被爆者であるとか、現代社会で人々に差別を受け続けているような人々であると思う。


しかしながら、こういった人々がすべてそういう風にネガティブな待遇を受けているかというと、実はそうではない。


同性愛者であっても、被爆者であっても、社会の中で受け入れられ、普通に生きている人もいる。


つまり、社会的マイノリティとはこういう分類によって区別される人々ではないんである。




子供というのは、父親と母親という2人の親があり、その両親から生まれてくる。


この両親の交わりによって生まれてきた子供が、大変に健康で幸せで、周囲がその誕生を祝福してくれるというのは、大変に望ましいことである。

しかしながら、そうではない場合。

生まれてきた子供が障害や病気を抱えていて、その誕生や存在を疎ましく思う。

こういう風に生まれてきて生きている子供というのが、実は社会的なマイノリティという分類に所属する人々なんである。

そして、そういう子供が生まれてくる男女の交わりというものが、実は大変に罪深いものであるということもわかっている。

たとえば、誰かを傷つける婚姻であったり、許されない交わりであったり、そういったことの結果、生まれてきた子供であることが多い。

そして、こういう風でありながら、たとえば同性愛者であったり、原爆の被爆者であったりすると、さらに差別や虐待の対象になっていくということである。

そして、こういった人々は、社会の中で虐げられ、下賎の世界に落ちてそこでどんな風に生きているのかもわからないような暮らしをし続けているんである。

日本という国は、昔から子供の婚姻は家や親が決めるという慣習があった。

家同士の婚姻、親の選んだ相手との結婚。

これは日本社会ではごく当たり前のことであり、こういった婚姻の結果生まれてきた子供は、当然周囲から祝福され、それなりに健全な子供であった。

しかしながら、現代ではこの従来の婚姻の慣習が失われ、家や親きょうだいを無視した自由恋愛にもとづく結婚などをする人が増え、その結果、障害や病気などを抱え、周囲から祝福されないような子供が生まれることが多くなっていった。

そして、こういう子供が、たとえば社会的な支援を必要とする状況に陥ったとしても、適切な支援を受けることが叶わず、社会からこぼれおちて、下賎の世界を這いずり回るような生き様になってしまうということである。

つまり、下賎の世界には、こういった人々がひしめいていて、得体の知れない状況がはびこっていると思われる。

そして、現在、社会的な気運として、この下賎の世界に政治的介入を試みているところである。