これまで、もっとも介入が困難であった、テロリストや犯罪者を生み出してしまう社会層に介入を試みている。



彼らは、複雑なしがらみの中で生きている親のそのしがらみに巻き込まれており、少なからず親のことで苦しみ、絶望にくれている。


そして、絶望のその先に、テロ行為や犯罪があると思われる。




こういった人々に介入し、彼らを救済しようと試みているんであるけれど、まず、知る必要があることは、彼らがいったいどんなしがらみに取り巻かれて生きているのかということである。



たとえば、生活の形態や仕事や子供の教育等に関して、おそらく一般社会で常識と思われるようなしくみの中で、そういったものが成り立っているとは思えない。



住まいや食糧をどうやって調達しているのか、どうやって仕事を手に入れて給料を稼いでいるのか。


そういったことが、社会の常識では感知できない状況で存在していると思われる。


そして、それが、しがらみになっている。





たとえば、このことに取り組んでいる政治家が、彼らのしがらみについて知ろうとしても、おそらくそのことを感知できない可能性が高い。


つまり、そのしがらみの様子を見せられても、それがいったいどういうことであるのかがわからない。


しかしながら、政治家がそれを知ることができないかぎり、そこに政治的な介入を試みることができない。





政治的な介入とはいったいどういうことか。



それは、そこで起こっている出来事を、人間社会の問題として問題解決のステージに乗せるということである。



つまり、そこのステージに乗せない限り、まっとうに問題解決に向かっていくことは困難であるということである。



たとえば、そのしがらみの事情をわかる実力者がいて、その人は政治家ではないんであるけれど、その人にはなんらかの力があるので、その人を頼ってなんとかしてもらう。


しかしながら、この人は政治家ではないので、その問題をまっとうに解決していくことはおそらくできない。




つまり、これが独裁者ということにつながっていく。



そして、人々はいずれこの独裁者に苦しめられる。





歴史上に数々存在していた独裁者というのは、おそらくこういった社会層の人々に支持されて台頭してきたんである。




たとえば、この社会層に支持される独裁者になりうる人物を、政治家として取り立てて、政治的介入を試みる。



つまり、政治家は、この独裁者になりうる人物と、なんらかのやりとりをしていくしかない。




ここで、政治の裏舞台には闇社会があるんであるけれど、つまり、そのやりとりに闇社会が絡んでいくことになると思われる。




多くの問題は、この三者の関係がまっとうに成り立たないことにある。



つまり、政治家と独裁者と闇社会。




政治家と独裁者の二者のみで、やりとりが成立するということはまずないと考えなくてはいけない。



独裁者は政治家に対してなにかを申し立てするよりも、闇社会に対して申し立てするほうが簡単である。


しかしながら、闇社会の人間は当然政治家ではないので、こちらに申し立てられたとしても、政治的な解決にはつながりにくい。




しかし、闇社会の人間が、独裁者から託されたことをそのまま政治家のほうに持っていけるかというと、これもまた困難なことである。




この三者の関係がまっとうに成立し、なんらかのやりとりが成功するならば、これらの社会層の人々の問題にたいして、政治的な解決につなげていくことができるであろうと思われる。





親のことで苦しみ、絶望にくれる子供を、そこから救ってやれるかどうか。



それは、これまでも書いてきたことと同様に、政治の仕事である。



部落の人など、社会的に救済を必要とする人々にたいし、政治家や地域のボランティアの人々が活動してきたことと同じようなことである。



そして、昨今の社会的気運にともなって、こういった子供たちを真に救済しようと試みている。


であって、そこにはこれまでにないような危険な状況が派生し、これまでそういったことに親切心でたずさわってきていた人々には、関わることのできないような事態になる可能性がある。




つまり、これまでこういった子供の面倒をみてきていた大人たちのことであるけれど、これまでは、面倒をみつつも、腹が立つことも多く、子供たちを親のことでつい追い込んでしまったり、子供に当たったりしてしまっていたという状況が、もう許されないということである。



そういったことを、こういう子供たちについしてしまう大人は、もう関わってはいけない、ということである。



こういった子供たちが、大人を信頼し、尊敬し、大人に心を開き、自分の将来に希望を持てるようにしなくてはいけない。



こういった子供たちが、そうなれるようにしてやれる大人しか、周囲にいてはいけない。




そうしてやれない大人は、関わってはいけない、関わることは社会的気運として、許されない状況になってきたということである。





こういった子供の親は、とかく複雑なしがらみの中で生きており、そこに子供は必ず巻き込まれている。



ただでさえ、そういった状況であるから、そこに無関係である大人が、さらに子供たちに関わって子供を別の方向から追い込むなどというようなことは、子供をテロや犯罪という方向に向けていく要素になっていることは否定できない。



こういった子供を救うということは、親のしがらみから解放させてやるということである。



そのためには、子供たちがいったいどんなしがらみに巻き込まれ、どんな状況に置かれているのかを知る必要があり、そのために、子供自身が心を開けるような環境を周囲に作らなくてはいけない。




こういった子供にたいして、そういうことをおこなうというのは、大変に難しいことである。



なにげない一言が、子供を追い込み、絶望の淵に追いやるんである。




親のことを口にしなければいいのか、というと、そういうことではなく、なにが子供のしがらみになっているのかわからない以上、子供がいったいどの言葉に反応し、深く傷つくのかもわからない。



であるし、子供のしがらみを知るために、子供が反応する出来事について子供にぶつけることもしなくてはいけない。



万一、子供を傷つけてしまったら、すぐにそれをフォローできる度量がなくてはできないことである。





という具合に、大変に難しいことであるので、親切心や偽善で、できるような活動ではないんである。




ただ、子供の言動に腹を立てず、親のことを口にしない、といったことではない。




ということである。




こういった子供に無意味に関わり、傷つけてしまった大人は、少なからずそのペナルティは自分に返ってくる。


そのことも危惧するので、無理な人は、関わらないでほしいと思うだけである。





男性から愛されない女性を母親にもつ子供。


そういう女性が、生きていく姿をそばでみているのがもっとも辛い。



男に利用され、捨てられ、それでも男に媚びて生きていくしかない。



そして、さらに辛いことは、そういう女であっても、そばにいないと生きていけない父親である。



男に愛されないどうしようもない女であるのに、そんな女でもいなくなったら生きていけないという父親が、もっとも哀れで悲しい。



なんでそんな女しかそばにいてくれないんだ、あんた。




そんな母親を捨てる父親ならまだいい。



そんな母親でも捨てることができない、いないと生きていけない。




情けなくて、自分が嫌になる。



そんな親から生まれた子供である自分を、誰が可愛がって愛してくれるのか。



そんな人、世界中にいるわけがない。




という絶望に打ちひしがれるんである。




自分自身に対する絶望がそこから沸いてくる。



そして、必ず、親のことをあれこれ言われて辛い目に遭う。


親にたいする鬱憤を、子供である自分に向けられる。




親を恨む、他人を恨む、社会を恨む、世の中を恨む、世界のすべてを恨み、果てはテロ行為などによってこの恨みを晴らし、すべてにたいする報復をおこなう。




こういった思考にもとづいて犯罪行為やテロ行為がおこなわれるんである。




みんな人の子であるということである。




そして、こういった子供たちは、根本的にこのことに苦しんでいるということを理解したうえで、親にたいする鬱憤を子供にぶつけたり、親がそうであるからと偏見の目でみたりすることを、周囲の大人はやらないということが、まず大事なことである。



こういった子供たちを犯罪者にしてしまうのは、こういった周囲の大人の無神経な言動である。


子供たちは少なからず親のことで苦しんでいるんである。


そこに追い討ちをかけるように、親のことで子供を追い込んではいけない。




毎日毎日、ささいなことで追い込まれているんである。親に関して。



じゃあ、親を捨てて生きればいいかというと、親自身が子供にしがみついて離れない。



こんな親にしがみつかれて、自分の人生などあるわけがないと、また絶望にかられる。



お前の親をなんとかしてやるから、そのかわりにこれをしろと、そんな悪魔との契約に手を出してみたりする。



それが、テロ行為だったりする。



そして、自分が親を殺してみたりもする。





こんな風にして、こういう子供たちは気が付いたら犯罪や悪事に手を染めてしまうことになる。



であって、こういう子供にたいして、親のことをののしったり、逆に親の面倒をみないといけないなどと説教することは、はっきりいってもっともタブーなことである。




しかしながら、こういった子供の多くは、親に支配され、嫌がらせの道具になっていたり、親のかわりに子供になにかをやらせたりしているので、子供自身にたいして虐待を招くことも少なくない。


腹が立つ子供であるから。



親がやらせているんであるとわかっていても、その子供にたいして腹が立つので、子供に辛く当たる。



こういった事情になっている。





つまり、もっとも大事なことは周囲の大人の理解である。



こういう子供の事情を理解し、子供たちをそこから救ってやろうと思えるかどうかである。