歳上の部下のことです。
今朝、奥さんがいつもの起床時間に寝室に起こしに行くとすでに亡くなっていたそうです。
昨日は普段通りに仕事して特別どうっていうこともなく。

突然です。

長い人生で関わってきた誰ともお別れの言葉を交わすことなく終わり。交通事故でもそうだけどとてもせんない。

自分の人生の終わりは出来れば『余命半年』とか大まかでいいので「残り時間」を教えて欲しい。
病気であれば最後の1、2ヶ月は病床だろうけど、まだ動けるときに逢いに行かねばならない人、お礼の言葉を伝えないといけない人が何人かいるので、突然の終わりはツラい。

ツラいもなにも、死んでしまえばなにも思考無しで『無』だけど。
自分亡きあと、身近な人たちが悲しむのか何ともないのか…
あの人は泣き崩れてくれるのか…
『いい人でした』と評価してもらえるのか…
関わりが深かった人たちの反応を見てみたいと思う気持ちは、当然「惜しまれる」ことで安心したいというちっぽけな感情ですけどね。
まだ子どもらも成人してないので、社会に出てから迫り来る最初の罠やトラブルに対して助けが必要なので成人後数年は見守ってやれる環境でいたい。
「悪いやつ」は「笑顔」で「善人」のフリして近寄ってくるから気を付けろと普段の会話で少し伝えてある。
何事も疑えというわけではないけど、まだ若いうちは見極めも難しいし、抗う力もまだないだろうから助けてやりたい。

と、近しい人の訃報のときにいつもいろいろと考えてしまう。

同級生や歳下が何かしらで亡くなっていくことも少しずつ増えてきた。

おそらく、残り時間はそんなに長くない。
今何をすべきか、何をしておかないといけないのか、くだらないことでモヤモヤと気分の悪いことに貴重な残り時間を無駄にしてはならない。
やりたかったけど躊躇ってたことをしよう。
食べたかったけど食べる機会がなかったものを食べに行こう。
逢いたかったけど逢えなかった人に逢いに行こう。(相手もそう思ってくれるなら)
傍若無人に振る舞って、他人の貴重な残り時間を削るようなことはせずに気を付けながら自分の残り時間を大切に。

もしも、今の時点で余命半年と宣言されたら、動ける間に茨城県の豆腐屋さんに行きたい。
ある時にお世話になり、その後不義理なままになってるので、たくさんのお菓子を抱えて訪ね、あの時の御礼とその後の不義理を謝りたい。

他には…

逢う約束をしていて叶えられていない人に…。

来月終わるかもしれない。
来年終わるかもしれない。
何年後かに終わるかもしれない。

正月が来てお餅を食べながら「来年も生きてて餅が食べられるのだろうか?」って毎年思ってる。

「一度きりの人生」

我慢大会で終わってはならぬ。

死んだときに「よくいろいろ我慢したね」と褒めてくれる人はいない。

我慢大会ではいけない。

とりあえず、食べたいものを食べようず!

明日、葬儀に行ってきます。

手を合わせ『おつかれさまでした』と唱える。

投稿写真

竹内まりや
「人生の扉」

https://youtu.be/LozxA_hC1RU