自由について
図書館で池澤夏樹の京大での講義の本で、カラマーゾフの大審問官の話を取り上げているのを読んだ。
それから、久しぶりに大審問官ってどんなのだったかなと思ってネットで探してみた。
そもそもカラマーゾフを読んだのは確か24の時。なんとなく25までには読まないといけない本だとは思っていたけど、まだ読書レベルも人としての考えも定まってないのでずっと先伸ばしにしていた。
そのときは、大審問官って凄いなとは思ったけど、そんなに深く考えたりはしなかった。(それ以上にあの本では考えるべきことは沢山あった)
しかし、最近読みなおしてみると昔よりも衝撃が強い。正に今の社会ではドストエフスキーの予言通りのものになっているのだと感じない訳にはいかなかった。
今思うことは、キリストが与えた自由を背負える人は、昔よりも少なくなっている。それは情報の複雑化、選択の多様化により思考が許容オーバーになり、肝心なものを置き去りにされてしまっていることが大きい。確かに選択出来ることは昔よりも増えていて、自身の意思で選べるのはいいことではあるが、幸せという曖昧なものの下で、その選択をするというのは難しく、酷である。
目の前にパンがあれば、それにしがみつきたくなるのも頷ける。
だが、自分自身の幸せを固め、掴むという実存を果たすために。
それから、久しぶりに大審問官ってどんなのだったかなと思ってネットで探してみた。
そもそもカラマーゾフを読んだのは確か24の時。なんとなく25までには読まないといけない本だとは思っていたけど、まだ読書レベルも人としての考えも定まってないのでずっと先伸ばしにしていた。
そのときは、大審問官って凄いなとは思ったけど、そんなに深く考えたりはしなかった。(それ以上にあの本では考えるべきことは沢山あった)
しかし、最近読みなおしてみると昔よりも衝撃が強い。正に今の社会ではドストエフスキーの予言通りのものになっているのだと感じない訳にはいかなかった。
今思うことは、キリストが与えた自由を背負える人は、昔よりも少なくなっている。それは情報の複雑化、選択の多様化により思考が許容オーバーになり、肝心なものを置き去りにされてしまっていることが大きい。確かに選択出来ることは昔よりも増えていて、自身の意思で選べるのはいいことではあるが、幸せという曖昧なものの下で、その選択をするというのは難しく、酷である。
目の前にパンがあれば、それにしがみつきたくなるのも頷ける。
だが、自分自身の幸せを固め、掴むという実存を果たすために。
苦しくてやるせない
本を読んで涙がでたのはいつぶりだろう。
それはホテルニューハンプシャー以来のことだ。
ずっと読まずに温めていた復活をなんでこの時に読んだのか、それはなんという導きなんだろう。
事の発端は会社に入って間もないj1の頃から感じていたことだった。j1の時から「なんでこんなにも会社を辞めたいのか、なぜこんなに苦しいのか」そんな思いをずっと抱いていた。
しかし、そんな思いや考え、感情は当然先人が抱いていたことであり、文字として記されている。
実際に文字として目の当たりにすると自分の感じていた苦しくてやるせない思いはここから生じたのだとわかり、心の鎖がほどけて解放された気分になった。そして辞める理由が言葉として浮かび上がってくる。
これからは目の中にある梁を認めて、生きて行こう
それはホテルニューハンプシャー以来のことだ。
ずっと読まずに温めていた復活をなんでこの時に読んだのか、それはなんという導きなんだろう。
事の発端は会社に入って間もないj1の頃から感じていたことだった。j1の時から「なんでこんなにも会社を辞めたいのか、なぜこんなに苦しいのか」そんな思いをずっと抱いていた。
しかし、そんな思いや考え、感情は当然先人が抱いていたことであり、文字として記されている。
実際に文字として目の当たりにすると自分の感じていた苦しくてやるせない思いはここから生じたのだとわかり、心の鎖がほどけて解放された気分になった。そして辞める理由が言葉として浮かび上がってくる。
これからは目の中にある梁を認めて、生きて行こう
