新聞が好きだった。読めない新聞が好きだった。眼に優しい霞むような灰色の柔らかな紙質や文学的な温かさを含んだインクの匂いが好きだった。毎朝、父は新聞を読んだ。新聞は父にとって朝食の一部だった。父はわたしに新聞を読めと言った。わたしが理解できるのはせいぜいNHK教育のテレビ欄とぬるい絵柄の四コマ漫画だけで、その裏のページに何が隠れているのかは知らなかった。知ろうとも思わなかった。新聞は文字のジャングルで、そこには情報という名の猛獣が数多に潜んでいる気がして怖かった。猛獣たちに勝つには知識をつけなければならぬ。それがオトナとコドモの境界線なのだと信じきっていた。多くの人が海に憧憬と畏怖の念を抱くように、幼いわたしにとって新聞は柔和さと厳かさを兼ね備えた大いなる存在だった。古代遺跡のような複雑な構造の新聞を読解するには7歳のわたしはまだ幼すぎたのだ。
いつからだろう、新聞が届かなくなった。情報伝達媒体は紙面ではなく液晶へと変遷したのだ。しんと静止したような早朝の街を駆けるバイクのエンジン音も響かなくなった。以前より背中が小さく、髪が白く薄くなった父は、新聞より小さくなった白く薄いタブレットの上で指を滑らせている。そこには昔のような活字の威厳も、高くそびえる漢字のブロック塀も存在しない。ましてわたしが好んだインクの匂いも紙質も、なにもかもどこか遠い記憶の片隅に追いやられてしまった。18歳のわたしは難しい漢字もたくさん読めるようになった。社会情勢や政治のことも学校で習った。もしも、11年前のように新聞が朝の食卓の上にあるのだとしたら、わたしはオトナとコドモの境界線を超えることができるのだろうか。いつか憧れた紙面の冒険家になれるのだろうか。あの頃の父のように難しい顔で新聞を読みふけることができるだろうか。わたしはいつオトナになれるのだろうか。