備忘録。

ゼミのOBOG会があった。いろんなこと学んだぁ~

まず、ものづくりの心髄って、理系が担っているものだと思っていたけど、違った。

企画とか案を出すのは文系、それを形にするのが理系。でも企画案から流通、販売までやってるのはほぼ文系なんだよね。そのものがいかに良いものでも、世の中に広まらなかったらゴミになってしまう。
つまりものをつくるという行為のうち、8割方は文系の役割なんだってわかった。。そんな風に考えたら、なんかめちゃめちゃ希望に胸が湧いた。

あとブランドコンサルティングの話。ホンダの部品調達の話。業界一位の強さ。良品計画の話……たくさんいろんなことを聞けたぁ~

きょう(明日?)10月1日は母の誕生日。

いつもバイトやらゼミやら飲みやらで帰宅が遅くなってしまうので

明日はゼミ終わり次第そっこー帰ろう。


私はほんとに人に感化されまくりだ。

目標が高いひとに会うと、自分も自分なりの高い目標を即座に立てるし、

趣味が多いひとに会うと、自分も自分なりの趣味をみつけるし、やろうろする。


感化されるのはだめなことじゃないけど、感化されるだけっていうのはちょっと考えたほうがいい。


たぶん感化されるだけでいい次期は年齢的にもう終わっていて、

自分が誰かに良いも悪いも影響を与えるようにならないとだめだ。


その人の生き方に感動するってことがたまにあるけど、


そういう人になるのが人間としての価値なんじゃないかって最近思う。


人がプラスの意味での感動っていう感情が湧くのって、たぶん努力が実ったときとか、大きな目標が困難の末達成されたときなんじゃなかっておもう。


っことは自分も何か大きな目標を達成させるべきなんじゃないか??


とおもって、今模索中。


ひとを感動させられちゃうような達成感を、自分も味わってみたい。

はたからみて、「うわ、この人やるじゃん!」って思われる人には2種類あるとおもう。

どうゆうことかというと、努力家か、天才かってこと。天才っていうのはポテンシャルの高い人。


自分でいうのもなんだけど、私は基本的にポテンシャルに頼ってきた。

だから例えばテストで良い点をとったり、運動会で良い成績を残したりしても、うれしいけど、なんとなく真のよろこびではないように思う。


一方努力家の人は、最初は目立たないし、低学年においては(勉強面では)ガリ勉とか、(負の意味での)負けず嫌いとかいわれちゃったりして、よくおもわれなかったりする。


でも大学三年になったいま、ようやく気付いたのは、天才肌の人は努力しないと心から良い思いはできないだろうし、努力家の人は少しばかりのポテンシャルがないと報われなかったりするんじゃないかって・・・。


私は決定的に努力が足りてない。完全に父と母が与えてくれたこの体と脳のもともとの力に頼り切っている。


でもよく考えると、それってめちゃめちゃもったいないことなんじゃなかって思う。


だってせっかくちょっとばかり素敵なポテンシャルを与えてくれたのだから、それを磨かなくてどうするんだよ!


人間って人それぞれみんな何かしらに関する潜在的な能力を持っていると思っているんだけど、


たとえば、私の妹は数学めちゃめちゃ苦手だし、お金の計算とかですら危うい。

でも、コミュニケーション能力とセンスは完全に長けているとおもうし、今の私ではかなわない。


~賞をとったとか、オリンピックで功績をのこしたとか、めちゃめちゃテレビでてる人とか、

そういう人っていうのは人生のある時点で自分のポテンシャルに合った何かと出会って、

さらに努力によってそれを磨いた結果なんじゃないかって思う。


金子みずすの詩の中で、「みんなちがって、みんないい」って節があるけど、ほんと、そうだなって最近感じる。


私はいつの時点でそれにであうのか、はたまたもうすでに出会っているのかもしれない。

でもそれってわからないから、何に関してもとりあえず精一杯努力してみれば見えてくるんじゃないかなって思うから、せっかく生きてるんだからたくさんの経験をしたい。


「いきてるだけでまるもうけ」


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