三島由紀夫先生【断金の交 まじわり】
≪ 禁 色 ≫
憂國忌に際して思いを偲ぶ。
昭和45年(1970年)11月25日に45歳で逝去。既に55年の歳月を要している。寄って勝手に許される、私ごとを述べたい。
ただ壮絶な行いは、決して否定するものではない。理由は三島の日本近代歴史上の最高の文学者であることは間違いない、今も三島を超えるモノはいないと確信する。
三島由紀夫は、文学作品と共に完結したのである。憲法改正を成せ、自衛隊を決起せよ、そして誇りをもって日本国軍になれ、と激烈に陸上自衛隊に真剣の日本刀をもって、檄をとばしたが、無駄に終わった。失敗になることも詠んでいた。55年経っても憲法改正は全く進展がない。三島の絶望感と孤独感だけが墓の下で、さい悩まされて冷たく凍っている様だ。しかし思想や最大の功績の文学が未だ広く読まれている。それが三島の本意だったかは、又の機会にして私は一つだけ三島の思いを果てたと思っていることがある、絶対の確信をも確証があると己の肉体に深く深く刻座まれた(切腹を以って最期は心よく坐死したこと。)は、その想いは以外ではないと思っている。或は快楽と血の欲望を墓の下までもって永遠としていることがある。それは(断金のまじわり)といって、男同士の二人の関係は堅い金属を断ち切ってしまうほど鞏固〘きょうこ、とは最強に堅いこと〙程の堅い絆、二人の男の断突に固く結ばれた契り約束以上のもの、男同士の或は片方の男が場合によっては断種して執って仕舞うすらも,宮(宮刑に遇ってもいい様な覚悟を示す)の身にもなって、つまり反対に自分自身のものを切り採って愛しい人に差し出してもイイという天上の愛の男色の形だ。日本の歴史上、実際に在ったことである、それは烈士三島由紀夫と同調烈士の森田必勝だ。
昭和六十四年十一月二十五日に東京市谷での烈士の行動だ、三島由紀夫は日本はこのままででは軟弱な経済だけの腑抜けた、劣悪な現在の憲法自衛隊を無視し続けていることが許せない。その意見に自衛隊の同調できるもの出でよ。決起せよ。と盾の会の制服(軍服の私兵)と頭に日の丸を額に印たハチマキで演説したが、失敗に終わって割腹自殺を遂げた、明らかな失敗も死の覚悟をもって、そして三島は同調烈士の森田に己の介錯を命じた。三島は森田に対して『断金の交』で最期を託したのだ。しかし森田は余りの緊張から真剣で三島の腹を切り裂いているのを目(ま)の当りにして、何度も何度も首めがけて刃を斬り付けるが、首肩顔を外し続け、三島は激烈な痛みに耐え一瞬の体現の身体を恍惚(心を奪われても、うっとりして、然(さ)も味わうとして投げ出した。別人の一刀に任せたそして首は介錯されこれは森田を責められない、そして森田も切腹して介錯され果てた。二人の首は整然と並べられ三島は森田に対して最上の情を持ち恋焦がれた、しかし森田は多少は三島の本を読み三島の男色の情念があることは、知っているがそれはあくまで文学の作品の確かな創造のことであり、まさか己三島が直接的に男色行為をして来ることはないと思っていた、つまり森田自身は生理的にも身体的にも男色は絶対の使命的に受け入れ難く、よもや三島がその様な行為は有り得ないと、唯ひたすら三島の精神に追従するだけに傾調するだけが唯一の使命と心得ていた、三島も、もしも森田に対して少しでも欲情を曝け出して、森田に失望、嫌悪されるを、恐れて一切の行為をあきらめた。それに拠って一切の計画が無に帰して仕舞うをいぶかった。無常の心だけで三島は満足した。
それで計画が失敗も含めて、二人が切腹して果てるを、天上最高の成就と三島は思考した。森田を道連れに共に 死すことが三島にとって最終目標だった。
これを以って、『断金の交』とする。或は三島は森田に対して最愛の情があったが、ある意味というか、三島は森田には最高の愛を遂げるため一切の行為は無くして純粋に死を以って人間の欲を亡くしたのだ。最高の愛を体現したのだ。
それが最大第一の目標、第二の目標は、戦中三島は日本国が戦っている中、兵隊の検査に応じたが、東京大学当時軍人に成りたかったが病気が見つかり不合格この失望感たるや筆舌に表わせないしかし三島は戦時中、何といつかは、軍人になった時に備えて、遺書をしたたためた、【遺書。御父上様、お母上様どうか御達者で…そして妹と弟に両親の健康を託して‥‥‥最期のあて先は天皇陛下万歳と書き終える。戦中の軍人の多くが書きしたためる。本当にその多くの軍人がその通りに戦い死んでいった。その価値観の是非はともかく三島は生き残って文化文筆に昭和に一世を風靡した。それが三島にとって活動をすべてを完成させて、この世に違和感が有り許せなく、そして一度したためてあった戦中の遺書の通り現在の天皇陛下のおわしかたに多少の疑念を隠せざるおう得なく、自ら死を以って果てなければならずと思慮深く覚悟をもってしていた、大戦中戦死するかもしれない一抹の思いがあったことは否めない。しかし30年40年生き残った。世俗的なノーベル賞は執れるか取れても、仮にも世間でノーベル賞作家割腹自殺と騒がれるだろうとも死を優先した難(かた)い目標があった。そして三島は市谷では失敗すると踏んでいた。そして戦中のおびただしい兵士の死があったから、おのれの一子の死位は当たり前だ。生きていることがむしろ申し訳ない、戦中の人間であってほしい、三島は戦中の者だったと言える。三島の作品で素人は気ずかないはずがない・・・・それでも気が付かない人の為に三島文学は古文体だ。そして割腹介錯いただき頭部が上半身から離反した。そして首を整えて他の盾の会兵士たちは故三島先生の御霊を整え残りの烈士たちは手を合わせて御送りたてまつった。